水仙の花畑で
初春の花が咲いている庭で、5歳になる息子が、水仙が咲いている一角に座り込んでいました。彼は何ヶ月も前に散った植物の残骸を見つけて、「ママ。僕は死んだものを見るとイースターを思い出すよ。だってイエスさまも十字架で死んだんでしょ」と言いました。私は、「ママはね、そこの水仙のように元気に生きているものを見ると、イエスさまの復活を思い出すわ」と返答しました。
イエスが墓からよみがえったことを確信させる話のひとつが、ルカの福音書に収められています。イエスが処刑されて3日後、ふたりの人がエマオに向かっていました。イエスは、この人たちと一緒に旅をされ、食事もされました。それどころか、旧約聖書の預言を教えたりもされたのです(ルカ24:15-27)。ふたりの旅人は、イエスが死から復活されたことを悟ります。そしてエルサレムに戻り、「ほんとうに主はよみがえった」と弟子たちに告げました(34節)。
もしキリストがよみがえらなかったのなら、私たちの信仰はむなしいものです。私たちは今もなお、自分の罪の中にいるのです(Ⅰコリ15:17)。しかし、聖書は、私たちが義と認められるために、イエスはよみがえられたと語っています(ロマ4:25)。
今日、私たちは神と正しい関係の中にいます。それは、イエスが生きておられるからです。
打ち勝つ
ラジオでセミナーの宣伝をしていました。「死に永遠に勝ち続けよう。その方法をお教えします」と面白いことを言っていました。どんな方法で死に勝ち続けられるというのだろうと、少し興味を持ちました。ダイエットかエクササイズ、または死後の身体を冷凍するという類の話かしらと思いましたが、実は私の聞き違いで、正しくは「借金に勝ち続け…」でした。(注:英単語の「死」と「借金」は音が少し似ています。)
最高のニュースは、イエスが私たちの負債を支払ってくださったので、私たちは死に打ち勝つことができるというものです(Ⅰコリ15:55-57)。罪という負債があると、神から切り離されています。しかし、イエスは自らすすんで十字架にかかり、ご自分のいのちで私たちの負債を払ってくださいました。マグダラのマリヤと他のマリヤは、イエスの死から3日目にイエスが葬られた墓を訪れましたが、御使いが現れて「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです」と語るのを聞きました(マタ28:6)。ふたりは大喜びで弟子たちにそれを知らせに行きましたが、その途中、イエスがふたりの前に現れました。主は「平安あれ」(口語訳 9節)と言われました。イエスは復活され、イエスに従う人たちには喜びが与えられました。
イエスは死のとげを取り去られました(Ⅰコリ15:55)。神の御子イエスの死と復活を信じるならば、私たちもまた勝利します。イエスの完全な御業によって、私たちは永遠に死に勝ち続けられます。
勝利の叫び
冒険家アーロン・ラルストンの自伝を読みました。彼は単独登山の最中、渓谷の奥深くで落石に遭って腕を挟まれて身動きが取れなくなりました。発見される可能性はほどんど無く、体力も消耗していきます。彼は生き延びるために挟まれた自らの腕をサバイバルナイフで切断する決心をします。耐えがたい痛みの中で、アーロンは苦しみと勝利の叫び声をあげます。アーロンは落石から脱出し、生き延びたのです。
イエスの十字架刑に立ち会った人たちは、イエスが何時間も苦しまれた後、大声で「完了した」と言われてご自分の霊を渡されたのを目撃しました(ヨハ19:30)。イエスの最後の言葉は痛みの嘆きではなく、勝利の叫びでした。イエスは、天の父に遣わされた目的を果たされたのです。
イエスは死なれました。私たちもいずれ死を経験しますが、イエスの死は特別です。私たちの死では決して成し得ないものを達成してくださいました。イエスの死によって、私たちの罪が贖われ、私たちの罪が赦され、私たちに永遠のいのちが与えられました。
「完了した」とは主イエスの勝利の叫びです。イエスを信じることで、私たちは罪の奴隷から解放され、自由といのちを得ました。
クリスチャンは、イエスが犠牲になってくださった日を記念して「グッド・フライデー」と呼んでいます。
すでに夜であった
フィラデルフィアに出張していたのは、イースターの前の木曜日でした。近くの教会で特別な礼拝があり、それに参加しました。それは小さなチャペルで、ろうそくのともしびだけで行われました。聖餐式が執り行われ、パンと杯にあずかりました。それからヨハネの福音書の一節が音読されると、一本のろうそくが消えました。そして私たちは、イエスが十字架に進まれるという賛美歌の一節を歌いました。これが14回くり返されます。すると、ろうそくが全部消えて、部屋の中は真っ暗になりました。暗い静寂の中、私たちはひざまづいて祈り、沈黙したまま、ひとり、またひとりとチャペルを後にしました。
このような礼拝がイースターの前にあると、その中で私たちはイエスの死を取り巻く闇を思い出します。イエスは最後の晩餐の席で、弟子のひとりが裏切ると話されました(ヨハ13:21-30)。それがユダであることをイエスは知っておらました。聖書は「ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった」と語ります(30節)。
これはイエスの生涯で最も暗い夜でした。イエスはゲツセマネの園で苦しみながら祈り、不当に逮捕されました。また、宗教指導者たちの侮辱に耐え、ペテロの拒絶に心を痛められました。それでもイエスはまっすぐに十字架に向かって歩まれ、私たちの罪のために死んでくださったのです。
イエスは、私たちに光といのちを与えるために、暗闇と死を耐え忍んでくださいました。何とありがたいことでしょう。イエスを賛美しましょう。
文脈から離れて
無造作に投げやりな言葉を言い出した人に、友だちが励ましたり、アドバイスをしたりしました。ところが、その人は、単に面白がってある歌の歌詞を文脈から離れて口にしていただけでした。親身になって助けようとした人たちは、時間を無駄にしたのです。アドバイスも不必要でした。誤解を生む発言をした人が引き起こした問題は、今回のところ大して深刻ではありませんでしたが、人騒がせな言動につき合っている間に、もっと大切なことをしたり、本当に助けが必要な人に手を差し伸べることができたかもしれません。
人の関心を引くために文脈を無視した引用をしたり、議論に勝とうと屁理屈をこねたりする人がいます。さらに悪いのは、力関係で優位に立とうと、真理をゆがめる人です。その人たちは他人の人生のみならず、たましいにまで危害を及ぼします。
言葉を巧みに操って、相手を自分の思い通りに行動させようとする人、さらには、聖書のみことばを文脈を無視して用い、不正なことを正しいと相手に信じさせて行わせようとする人がいます。このような行為から身を守る手段は、ひとつしかありません。それは聖書を知ることです。私たちは、神が聖書の中で何を教えておられるか、きちんと知らなくてはなりません。イエスは、真理によって誘惑を退けることができました(ルカ4章)。私たちにも同じ真理が与えられています。神は聖書と聖霊をくださいました。これらが、私たちを導きます。私たちがだまされたり、道を逸脱させられたりしないように守ってくれます。
世界は御父のもの
アマンダはカリフォルニア州サン・ディエゴ市にあるキリスト教系の大学の2回生でした。彼女は、クリスチャンが地球環境保全に果たすべき役割について、再考させられました。今までは、自分が救われていることと地球環境に配慮することに関連性があると意識していなかったのですが、クリスチャンに果たすべき役割があるとチャレンジを受けたのです。特に、世界中の困窮している人たちに福音を届けるということと、地球環境の関連を考えさせられるうちに、彼女は大きく成長し、変わっていきました。
クリスチャンには、神が創られた美しい世界をみこころにそって管理し、そこに住む人たちが幸せに暮らせるように配慮する責任があります。この責任を果たすことによって、私たちは自らが神を敬っていることを示します。この責任は、次のふたつの聖書の原則に基づいています。
初めの原則は、「地は神のもの」だということです(詩24:1-2)。詩篇の作者は、万物の創造主である神を賛美します。天と地、そしてそこにあるすべてのものは神のものです。神が創造し、神が君臨し(93:1-2)、神がそれらをいつくしまれます(マタ6:26-30)。第2の原則は、世界が健全に営まれるように守り導く責任を、神が私たちに授けたということです(創1:26-28)。私たちは、自然も人も尊んで守らなければなりません(レビ25:2-5、11節、箴12:10、ロマ15:2)。
地球環境は、私たちの御父のものです。それを尊重し、その中に住む人々に心を配ることによって、自分がどれほど神を愛しているか、神に示していきましょう。
重すぎる
早朝の薄暗い光の中、車のエンジンをかけたところ、シートベルトサインが点灯しているのに気づきました。私はシートベルトがドアにはさまっていないか、たるんでいないかなどを確認しましたが、まだ点灯しています。「もしかして…」という気がして、助手席に置いたバッグに手を伸ばし、それを持ち上げると、サインが消えました。
そのバックには硬貨の包み3本やハードカバーの本、弁当などが入っていたため、子どもの体重程度の重さに達して、センサーが作動してしまったのです。
バッグの中身を空にするのは簡単ですが、重さを減らすことが難しいものもあります。とりわけ、人生の重荷は気持ちを重たくします。
心にのしかかる重荷が、ダビデを疲れ果てさせたような罪であれ(詩32:1-6)、ペテロが体験したような恐れであれ(マタ26:20-35)、トマスの抱いたような疑いであったとしても(ヨハ20:24-29)、それらを持って来なさいと、イエスは招いておられます。主イエスは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と語っておられます(マタ11:28)。
私たちは、自分だけで重荷を負うようには創られていません。私たちの重荷を担ってくださるお方に、それを委ねましょう(詩68:19、Ⅰペテ5:7)。そうすれば、神はそれに代えて、赦し、いやし、そして、回復を与えてくださいます。神にとって重すぎる重荷はありません。
差し出す
ずいぶん前のことになりますが、ある若者に車を貸してもらえないかと頼まれたことがあります。初めはためらいました。自分たちの車だし、それがないと困ります。けれども、すぐに貸すべきだと確信しました。他の人を助けるように、神が望んでおられたからです。それで、車の鍵をわたすと、彼は40キロ離れた教会まで運転していって、そこで中高生向けの伝道集会を開きました。その集会は祝福され、10代の若い人たちが救われました。
神の御子イエスは弟子たちに、「それをほどいて、引いて来なさい」と、他人のロバを連れてくるように言われました(マコ11:2)。もしも何か言われたら、「主がお入用なのです」と言うように指示されました。そうすれば、それを連れて行けることになっていたのです。そのロバは、私たちが「しゅろの日曜日」と呼ぶ日、キリストをエルサレムに運ぶために使われました。
ここに目を留めるべき教訓があります。私たちにはそれぞれ、大切にしているものがあります。それを手放すことなど絶対にあり得ないと思うものもあるでしょう。それは、新しい車とかお気に入りのコートといった持ち物かもしれませんし、たまの休日や自由な時間かもしれません。それが何であったとしても、あなたは誰の目から見てもそれを必要としている人のために、自ら進んで差し出せますか。
もし、聖霊が促されていると気づいたなら、ロバの持ち主がそうしたように、あなたの持ち物や時間を手放しましょう。そうすれば、神の栄光がふさわしく現われるでしょう。
希望は誰のもの
近頃は、何を見ても驚かされまいと努めていますが、ショッピングモールで横を通り過ぎた女性のTシャツに書かれていた文句にはドキッとしました。太い活字で、「希望はおバカさんのもの」と書かれていたのです。確かに、うぶで乗せられやすいことは、愚かで危険です。根拠のない楽天主義が失望や傷心という悲しい結果を招くこともあるでしょう。だからと言って、希望を持たないようにするのは、あまりに悲観的でひねくれた人生観です。
聖書の希望は独特です。それは確かな信頼です。この世界の中で何かをしようと神が働いておられる、そして、「私」の人生の中でも神が働いておられると信じることです。これこそが、みんなが必要としているものです。ヘブル人への手紙の著者は、「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか」(ヘブ10:23)と記して、はっきりと希望の大切さを述べています。
聖書に根ざした希望を持つことは、愚かなことではありません。それにはちゃんとした根拠があるからです。私たちの神は真実なお方ですから、キリストを信じて手にした希望を、しっかりと握っていましょう。現在でも未来でも、私たちがどんなことに直面したとしても、神は信頼できるお方です。私たちの希望の土台は、永遠の愛をもって愛してくださる神の信頼できる品性です。あのTシャツの言葉は間違っています。「希望はおバカさんのもの」ではありません。希望は、あなたと私のものです。