Month: 3月 2013

賞を目指して走る

アイディタロッド・トレイルレースは、毎年3月にアラスカで行われる犬ぞり競走です。そりを引く犬たちとマッシャーと呼ばれる御者は、アンカレッジからノームまでの1,670キロあまりの道のりを8日から15日間かけて走り、その速さを競います。2011年の覇者ジョン・ベイカーと彼の犬たちは、全工程を8日間と19時間46分39秒で走り抜きました。マッシャーと犬たちのチームワークは素晴らしいものです。また、彼らは勝つために、執拗(しつよう)ともいえるほどに努力を惜しみません。優勝者には現金と小型トラックが贈られますが、極めて過酷な天候の中、あれほど辛抱したことに比べれば、この賞金や賞賛はあまりにはかなく、大したものではないように思えます。

使徒パウロにとっても、レースの興奮は馴染みの概念でしたが、彼はそれを永遠を思い描くために用いました。パウロはこう書いています。「また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」(Ⅰコリ9:25)。

私たちは時に、一時的な報酬に目を奪われそうになります。しかし、そのような報酬は、時間とともに消え去ります。一方聖書は、永遠に続くものに目を向けなさいと促しています。私たちは、永遠に続く霊的なインパクトの報いを追い求めながら、神をあがめましょう。

価値あるものへ

アップル社の共同設立者であるスティーブ・ジョブズは、ガンと闘う中で次のように語りました。「もうすぐ死ぬという意識は、今までに巡り合った何よりも重要なツールだ。人生の大きな決断を助けてくれる。ほとんどすべてのもの、つまり、人の期待、自尊心、恥や失敗に対する恐れなどは、死を前にして剥がれ落ちていき、自分にとって本当に大切なものだけが残る。」彼の苦しみは、彼の選択に用いられました。

使徒ペテロが手紙に書いていることは、それとは対照的です。彼は、今の苦しみは自らの人生に永遠の価値を持たせるために用いなさい、と述べています。イエスの苦しみと死を知って信仰にいのちが吹き込まれ、イエスの御名を信じているがゆえの戦いや迫害を引き受けることができるように願っていたのです。手紙の読者たちはイエスを愛したので、苦しむことが当たり前になっていくでしょう。イエスの苦しみは、罪深い情熱を捨て去って、神のみこころに従順になる動機づけとして用意されていたのです(Ⅰペテ4:1-2)。人生に永遠の価値を持たせるには、はかない楽しみにふけるのをやめ、神を喜ばせることのために、自分の人生を使い果たさなければなりません。

イエスが私の罪を赦すために苦しみ、死なれたことを意識することこそが、今日、敬虔な人生を選択しようと自らを奮い立たせるために重要です。これを意識することこそが、自分の人生に永遠の価値を持たせるために大切なのです。

雨に想う

新しく植えたペチュニアが、可哀想なことに土砂降りの雨に打たれてしまいました。できることなら、軒下に避難させてやりたいぐらいです。雨がやんだとき、ペチュニアの小さな花々は、滝のように降り注いだ雨水の重さでうなだれ、弱々しく悲しげです。しかし数時間経つと、それらはぴんと上を向き、翌日には、まっすぐに力強く立っていました。

なんという変容でしょう。雨水はペチュニアの頭を叩いたあと、枝葉から滑り落ち、土壌の中に浸み込みます。そして、ペチュニアの茎を通ってそれを潤し、まっすぐに立ちあがる力を与えます。

私は日光が好きなので、雨によって庭の植物が駄目になってしまうのが嫌いです。私には、雨を否定的にとらえる傾向がありますが、それは間違いです。干ばつを体験した人なら、雨が祝福であることを知っています。雨は地を潤し、良い人の上にも、悪い人の上にも、地の恵みを与えてくれます(マタ5:45)。

雨のみならず、人生の嵐に激しく襲われて、その大きな力にくじけそうになったときも同じです。「雨」は、私たちの敵ではありません。私たちの慈しみ深い神が嵐をお許しになったのですから、私たちをより強くするために、それが必要なのでしょう。神は、雨で私たちの外側を打たれますが、私たちの内面を強くされます。そういうわけで、私たちは、まっすぐに強く立ち上がることができます。

まずは基本

孫のサラがまだ幼かったころ、大きくなったらお父さんのようなバスケットボールのコーチになりたいけれども、今はできないと言いました。なぜなら、コーチになるためにはまず選手になって、靴の紐を締めなければならないけれど、自分にはまだそれができないからだそうです。

「まずは基本が肝心だ」とよく言われますが、人生の基本は神を知り、神を喜ぶことです。神の存在を認め、神というお方を知るならば、「このような人に…」と意図して創られた人になることができます。ダビデ王が息子ソロモンに与えた勧告は、「わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい」です(I 歴 28:9)。神を知ることは可能だということを忘れないでください。神は、単なる神学的な概念や論理ではありません。人なるお方です。人と同じように、考え、意志、喜び、感覚、愛、願望を持っておられます。A. W. トーザーは、「神は人格を持ったお方であり、私たちが心を整えてその奥義を知ろうとすれば、それに従ってますます親しく知ることができる」と書いています。この言葉の重要な点は「心を整える」です。

神は、ご自分を知るために、人に大きな努力を強いたりなさいません。神を知りたい人はだれでも、神を知ることができます。神はご自身の愛を私たちに押し付けるお方ではなく、私たちが歩み寄るのを忍耐強く待っておられます。神はあなたに知ってもらいたいと思っておられます。神を知ることが人生の基本です。

全部は出来ない

ベッドに入る前、4歳のエリアーナは母親と一緒に自分のものを片づけていましたが、「ベッドの上の洋服を片付けなさい」と言われてかんしゃくを起こしました。小さな手を腰に当てて、「全部できないわよ」と怒鳴りました。

神に召されたことをしているとき、この子のように感じたことがありますか。教会の奉仕をし、良い証を立て、子育てもして、いっぱいいっぱいです。イライラし、ため息をついて、「主よ、全部はできません」と祈ります。

けれども、神の教えを見るなら、ギリギリまで頑張ることが期待されているのではないと分かります。例えば人間関係について、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」と言われました(ローマ12:18)。「自分に関する限り」という条件が付いています。神は、私たちの限界をご存じです。また、「何をするにも、人に対してでなく、主に対してするように、心からしなさい」と言われ(コロ3:23)、人にすごいと思われるような完璧さはなくても、神にささげるつもりで仕事をしなさいと語られます。さらにもうひとつ加えれば、「おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう」と言われ(ガラ6:4)、他人と競うのではなく、ただ負うべき自分の荷を負いなさいと教えられます。

神の知恵によって、神は各人に備えをくださいました。それによって、私たちはそれぞれ、神がして欲しいと思っておられることをするのです。これは決して全部ではありません。

私の唇の所有者は誰か

賛辞とお世辞の違いは、その動機であることが多いようです。賛辞は、相手の人の才能や行為を本心から評価し、その気持ちを伝えようとするものです。他方、お世辞の目的は、相手に良く思われることで、自分が何らかの得をすることを狙うものです。賛辞は相手を力づけようとするのに対して、お世辞は相手を操ろうとするものです。

詩篇12篇で、ダビデは当時の世の中を嘆きました。誠実な信仰深い人々が少なくなって、「へつらいのくちびると、二心」(2節)の人ばかりになっていたのです。彼らは「われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか」と豪語していました(4節)。

「私の唇の所有者は誰か」。心にもないお世辞を言ってうまく立ち回ろうと思うことがあったら、このように自問してみてください。唇が自分のものならば、好き勝手なことを言えますが、その所有者が神ならば、私の言葉は神のみことばを映し出すはずです。みことばは、土の炉で七回もためされて純化された銀のように、混じりけのない言葉だとダビデは語りました(6節)。

私たちの唇の所有者は誰かを示す良い方法は、次のようなダビデの祈りで毎日を始めることかもしれません。「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」(詩篇19:14)

砕かれた骨

大学時代、私はサッカー部でゴールキーパーをしていました。部活は最高に楽しかったのですが、その楽しさは非常に高くつきました。相手チームに得点させないように身体を投げ出してゴールを守るので、危険な目に遭ったり、負傷することがあるからです。あるシーズンなどは、まず足を骨折し、次に肋骨にひびが入り、それから肩を脱臼し、最後には脳震とうを起こしてしまいました。今だに、その代償を払っています。寒い日には古傷が痛み、過去に骨折したことを思い起こさせるのです。

ダビデもまた、骨が砕かれたことを思い出さずにはいられませんでした。しかし、それは肉体的な骨折ではありません。精神的なものでした。彼は一時、道徳的に堕落してしまいました。バテ・シェバと不倫をし、その夫を戦場で死なせたのです。そんなダビデを神はしっかりと懲らしめられ、ダビデは悔い改めて、神に立ち返りました。「私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう」と祈りました(詩51:8)。

神の懲罰は厳しく、ダビデは自分の骨が砕かれたように感じました。しかし、彼は信じていました。恵みの神は、彼の砕かれた骨を癒やし、喜びの火を再びともしてくださることを。

私たちが間違ったり、罪を犯したりしたとき、神は私たちを放っておかれないと知るのは慰めです。神の懲罰で私たちを懲らしめ、更生させてくださいます。

イエスの目

子どもたちとアイスクリーム店で並んでいたとき、顔に傷のあるこわ面の人に気づきました。服は汚れてはいませんが、しわくちゃです。私は、その人と子どもたちの間に壁を作るように立ちました。話しかけられたときも、よく聞き取らず、目を合わせることもなく、少しうなずいただけでした。ところが、妻が一緒ではなかったので、その人は私たちを父子家庭だと思ったようです。「ひとりで子育てするのは大変だね」と言いました。私はその優しい口調に、思わず彼を見つめました。すると、彼も子ども連れなのに気づきました。そして、彼が妻を亡くしてどれほどになるかなどという話を聞きました。優しい話ぶりは、こわそうな外見とは対照的でした。

まさにガツンとやられました。また外見で判断してしまいました。イエスは、人を寄せつけないような外見の人と出会われました。今日の聖書のみことば(マコ5:1-20)の悪霊につかれた男性もそのひとりです。ところが、イエスはこの人を避けるどころか、彼の必要を満たされました。

私たちには罪の傷跡や、しわくちゃの品性(誠実になろうとしても、途中でつっかえてしまうので)があります。にもかかわらず、イエスは常に愛の目を注いでくださいます。私たちも心の中で人を見下したりせず、イエスの愛で人を愛すことができるように、主に助けていただきましょう。

ブラックボックス

民間機は「ブラックボックス」と呼ばれる記録装置をふたつ搭載しています。ひとつは飛行実績と飛行中の機体の状態を記録し、もうひとつは、乗務員と地上管制官との会話を記録します。この装置は極度の高温・低音に耐えるよう、耐熱性を備えています。また、水中から音を発して自らの存在を知らせる装置も内臓しています。飛行機が墜落すると、この装置は回収され、データが解析されます。航空安全の専門家たちは、このような惨事が繰り返されないことを願って、墜落原因を突き止め、過去のミスから学ぼうとします。

私たちクリスチャンも、過去の誤りに目をとめ、そこから学ぶ必要があります。例えば使徒パウロは、イスラエルの民はエジプトからカナンに向かう旅の途中で間違いを犯したとほのめかして、彼らが神を怒らせたために荒野で数多くの民が死んだ、と記しました(Ⅰコリ10:5)。そして、このように続けました。「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。」(新共同訳 11節)

聖書はすべて、神の霊感によって書かれたもので、私たちを教え、戒め、矯正し、義の訓練をするために有益です(Ⅱテモ3:16-17)。神が聖書のみことばによって導いてくださることを感謝しましょう。