Month: 3月 2013

生ける証

ウォッチマン・ニーは1952年、キリストを信仰しているという理由で捕えられ、死ぬまで獄中にいました。1972年3月30日に亡くなったとき、姪がほんのわずかの持ち物を取りに行くと、看守がベッドの横で見つけたという紙の切れ端をくれました。そこには彼の生涯の信仰告白が書かれていました。

「キリストは罪人の贖いのために死に、三日後によみがえられた神の御子である。これは宇宙で最も偉大な真理だ。私はキリスト信仰のゆえに死ぬ。―ウォッチマン・ニー」

使徒パウロもキリスト信仰のために殉教したと伝えられています。死ぬ少し前に書いた手紙の中で次のように述べ、読者を励ましています。「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。私は、福音のために、苦しみを受け…ています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。」(Ⅱテモ2:8-9)

歴史上、何百万、何千万というクリスチャンが殉教しました。私たちは、殉教者になるように召されてはいないかも知れませんが、イエスが自分のために何をしてくださったのかを実証するようには召されています。私たちは、神の恵みあふれる贈り物に感謝して、相手の反応はどうであれ、イエスが自分にしてくださったことを伝えていきましょう。

豊かなたましい

史上最高の約510億円という賞金の獲得を夢見て、多くのアメリカ人は2012年の初め、それぞれの州で宝くじを買いました。推定販売額は1,200億円です。1億7,600万分の1という驚くような当選確率にもかかわらず、人々は金持ちになる夢を買おうと、スーパーやガソリンスタンド、またはカフェなどに設置された売り場に列をなしました。どういうわけか、私たちはもっとお金があれば今ある問題が解決し、人生がうまくいくと考えがちです。

ところが聖書の中のアグルという人は、豊かさについて別の見解を持っていました。彼は、死ぬ前にふたつの願いを叶えてくださいと神に祈りました。

彼はまず、「不信実と偽りとを私から遠ざけてください」と言いました(箴30:8)。嘘をつかないことは、不安のない人生の鍵です。隠しごとがないなら、恐れるものはありません。人をだますと自分が奴隷化され、正直になるなら解放されます。アグルはまた、「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください」と語りました(8節)。満足感は、与え主なる神を信頼して感謝して受けるとき、心に湧き起こります。アグルは、創造主を「地のすべての限界を堅く定めた…拠り頼む者の盾」であると語ります(4-5節)。

後ろ暗いことが全く無く、満足感に充たされている人は、豊かなたましいの持ち主ですが、誰でもそうなることができます。私たちの神は、この宝を望む人すべてに喜んで与えてくださいます。

すべてのことに感謝する

私の娘は重いピーナツアレルギーで、ほんの少し口に入れただけでも生命にかかわります。そこで私たちは、食品の包装ラベルを綿密に調べ、どこに行くときも、アレルギー処方薬が入った注射器を持参します。外食をするときは、前もってレストランに電話し、メニューの品目についてしつこく尋ねます。

このように用心していても、娘の安全が守られる保証はありません。私は、こういう状況に感謝することはなかなかできません。しかし、神のみことばは「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサ5:18)と、チャレンジを与えます。神は私たちに感謝の心で祈って欲しいと語られるのです。それは、未来が不確かでも、悲嘆に暮れることが起こっても、家計が苦しくてもです。言い訳はできません。

苦境の中で感謝するのは容易ではありませんが、不可能でもありません。ダニエルは自分の身の危険を知りながら、「神の前に祈り、感謝して」いました(ダニ6:10)。ヨナは魚の中で、「感謝の声をあげて」叫びました(ヨナ2:9)。ふたりの例、さらには、神はすべてのことを働かせて益とし、ご栄光を現されるという聖書の約束(ロマ8:28)は、すべてに感謝できるように、私たちを鼓舞してくれます。

大盤振る舞い

小さな教会の牧師だったときのことです。私たちの教会は、大きな困難に直面しました。教会堂が安全基準に満たなくなって、高額の改修工事を行わない限り、そこで礼拝できなくなると当局に通知されたのです。必死に献金を募ったおかげで改修工事の費用は工面できましたが、ある人の献金について気になった役員がいました。

その人は高齢の女性の教会員でした。この工事のために数百ドルを寄付したのですが、彼女にはそのような余裕のないことを私たちは知っていました。それで私たちは、「お気持ちには感謝しますが、ご自分の生活も大切にしてください」と言って返金しようとしました。彼女の生活は教会の状況以上に大変だと思ったのです。ところが、彼女はお金を受け取りません。それは、台所の調理用コンロを買いたいと思って何年もかけて貯めたお金でした。今はまだ鉄板の上で料理をしているのだそうです。そして、教会の家族と共に礼拝する場所は、自分にとって、台所のコンロ以上に重要だと主張しました。私たちは、彼女の大盤振る舞いな献金にびっくりしてしまいました。

イエスはやもめが宮の献金箱に二枚の銅貨(最小価値の硬貨)を投げ入れるのをご覧になり、このやもめを褒められました(ルカ21:3-4)。それは献金が高額だったからではなく、彼女が所持金すべてをささげたからです。こういう献金が、神に栄光を帰すささげ物ですが、それだけでなく、私たちがいただいた大きな贈り物、すなわちキリストを思い出させてくれるささげ物です。

祈る友人

数ヶ月間会っていなかった友人のアンジーと一緒に昼食をとりました。彼女は食事が済むと、メモ帳を取り出しました。そこには、前回会ったときに私が祈って欲しいと頼んだことが書きつらねられていて、彼女はずっと祈っていてくれたのです。アンジーはリストを読み上げながら、何か進展はなかったかと尋ねました。そして今度は、彼女の祈りのリクエストについて、私のほうが話を聞きました。祈り合う友人がいるのは、何という励ましでしょう。

使徒パウロは、自分が奉仕した教会の人々と互いのために祈り合っていました。テサロニケ教会も、そのような教会のひとつです。パウロは、テサロニケ教会の人々の信仰と愛、そして、キリストへの望みについて、いつも神に感謝していました(I テサ1:2-3)。パウロは再会を願って「昼も夜も」祈りました(3:10-11)。神が「あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれてさせてくださ」るようにと願いました(12節)。彼らの心が、神の御前で責められるところのないようにとも祈りました(13節)。テサロニケの人々は、パウロが彼らを心配して祈っていることを手紙で読み、励まされたに違いありません。自分にも神のご臨在と御力が必要だと承知していたパウロは、「兄弟たち。私たちのためにも祈ってください」と頼んでいます(5:25)。

天の父と話したい、と願う心を私たちに与えてくださった神に感謝します。私たちが、誰かの祈りの友になることを学んでいきますように。

イエスのチーム

オークランド・アスレチックスは2001年のシーズン後、3人の主力選手を失いましたが、資金不足で大型補強ができませんでした。そこでゼネラルマネージャーのビリー・ビーンは、統計データを利用して選手を集めました。この選手たちは他球団で「全盛期を過ぎた」とか「技術不足」と判断された、知名度の低い人たちです。ところが、この落ちこぼれ軍団は20連勝を含む103勝を上げ、2002年の地区優勝を果たしました。

この事実で思い出すのは、イエスが弟子を選ばれたときのことです。イエスは荒くれガリラヤ人漁師、熱心党員、さらには、レビ(マタイ)という嫌われ者の取税人をご自分のチームに選ばれました。これは、「神は…強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです」(Iコリ1:27)という聖書のみことばを思い出させます。神はこれらの献身的な人たち(ユダを除く)を用いて、ある動きをスタートさせられました。それは世界に劇的な影響を与え、世の中を全く違ったものにしていきました。

私たちは、この教えから学ぶことができます。私たちは、人気、影響力、財力のある人を求め、地位の低い人や肉体的に劣る人を軽視しがちです。

しかし、イエスはすべての人を平等に扱われ、世の中で認められていない人たちも自分のチームに加えられました。私たちもまた聖霊と導きによって、すべての人を平等に見ることができます。

境界線で

ミシガン州グランドラピッツ市のフレデリック・マイヤー植物園には、蝶を孵化させる温室があります。この場所は、蝶の成育にとって最適の条件が整っています。気温や湿度が管理され、カロリーと栄養のバランスのとれたエサが準備されています。この温室の中にいれば十分です。どこかに行く必要はありません。ところが、何羽かの蝶は、ガラス張りの温室の外に広がる明るい青空にひきつけられ、豊富な食糧から遠く離れた天井のあたりを飛んでいます。

こんな蝶々に言ってあげたくなります。「君に必要な物は、みんな中にありますよ。外は寒くて厳しいの。あこがれの外に飛び出したら、数分のうちに死んでしまうわ。」

これは神からのメッセージかもしれないと思って、私は自問します。私は有害なものにあこがれていないでしょうか。不必要なものや、持つべきでない物を手に入れようと、エネルギーを費やしていないでしょうか。神の豊かな備えに目を留めず、手の届かないものを良い物と想像していないでしょうか。不信と信仰の境界線の辺りでうろうろしていないでしょうか。

神はキリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、私たちの必要をすべて満たしてくださいます(ピリ4:19)。無いものを手に入れようともがく代わりに、心を開きましょう。そして、神がすでにくださったすべてのものを感謝して受け取りましょう。

バンパーカー

人生は遊園地にある「バンパーカー」によく似ています。衝突されることは承知で車に乗り込みますが、その衝突が、どの程度になるかは分かりません。そして、衝突されると、アクセルを踏んで相手の車を追いかけ、もっと強く当たろうとします。

これはバンパーカーならば面白いかもしれませんが、人生の戦略としてはいただけません。「衝突されたら仕返しをする」ということなら、その態度は問題を悪化させるだけで、結局のところ、みんなが苦しむことになります。

イエスはより良い戦略をお持ちでした。つまり、相手を赦すのです。私たちはペテロのように、「いったい何度、赦さなければならないのか」と疑問に思うかもしれません。ペテロが「七度まででしょうか」と尋ねると、イエスは「七度を七十倍するまで」と答えられました(マタ18:21-22)。言い換えれば、「恩寵」に限度はないのです。私たちは常に赦す姿勢でいなければなりません。なぜでしょう。イエスが借金を免除する主人のたとえ話で教えられたことによると、人を赦す理由は相手がそれに値するからではなく、自分が赦された存在だからです。たとえ話の主人は、「おまえがあんなに頼んだから…赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」と語っています(32-33節)。

私たちは多くを赦された者ですから、問題の悪化をとどめ、人々と祝福を分かち合いましょう。

強制された余暇

ある年のクリスマスの直前、友人のキムが白血病だと診断され、直ちに化学療法が始まりました。少し前、彼女は友人たちに、愛する家族と居心地の良い住まい、そして孫息子も生まれてすごく幸せだと言っていたのです。彼女は入院するとき、主のご臨在が常にあるようにと祈りました。

彼女は、無菌室で7カ月間治療を受け、徐々に回復しましたが、この期間は「強制的な余暇」だったといいます。つまり、「ゆっくり過ごすこと、静かに神や自分と向き合うこと、神の善良さ、愛、そして完全なご計画(自分が完治するか否かにかかわらず)の中で安らぐことを学習させられた」のです。

神の民であるイスラエルに与えられた神の約束のひとつは、キム個人に向けられたものとなりました。「あなたの神、主は、…救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」(ゼパ3:17)

キムは今、寛解(かんかい)期にありますが、入院体験は自分の人生を良い方向に変える旅だったといいます。また忙しい日常生活が始まりましたが、今でもしばしば立ち止まり、「強制された余暇」の時期に学んだことを思い出すといいます。

良い時でも悪い時でも、神のみこころに寄り添い、みことばを聞き、自らを神の御手に委ねることは、非常に重要なことです。