Month: 4月 2013

ひとりずつ

エドワード・ペイソン牧師は過ぎし日の有名な説教者のひとりですが、ある嵐の日の主日礼拝に集った人は、たったひとりでした。その数ヶ月後、あのときひとりで礼拝していた人がやって来て、「私はあの礼拝で救い主と出会いました」と言いました。「あなたが罪と救いについて語るたびに、誰のことかと周りを見回しました。しかし、そこにいるのは私ひとりでしたから、語られた一語一語は私に向けられたものだと受け止めて、良心に刻むよりほかなかったのです」。

このように神は、私たちをひとり、またひとりと救ってくださいますから、そのひとりに出会う機会があるのなら、そこがあなたの宣教地です。「キリストが宿る心を持つ人は、誰でも宣教師であり、キリストを知らない人の心は、宣教の地だ」というスローガンもあります。世界宣教をひとりですることはできませんが、隣人を愛することはできます。その「隣人」とは、生活の中で出会っていく人たちのことです。

ピリポは、聖書の意味が分からなくて困っていたエチオピヤ人の宦官と、聖霊に導かれて出会いました(使8:26-35)。聖霊は、ピリポに適切なことばを与え、宦官はキリストを信じる信仰を告白したのです。

神が準備してくださった人と出会えるように祈りましょう。神は、適切な時と適切な場所でその人に語れるように導いてくださいます。主はあなたの口を通して語り、あなたの手を使って御業をなし、あなたの内に御心にかなった偉大なご計画を成し遂げられます。

素晴らしく作られている

最近、目の検査を受けたとき、今まで見たこともない装置が運ばれてきました。医者にそれは何かと聞くと、「この装置を用いて、あなたの目の奥の内側の写真を撮ります」という返事でした。

そんなことができるカメラが発明されたことに驚きましたが、その写真から得られる情報には、さらに驚かされました。医者は「目の奥を見るだけで現在のあなたの健康状態が分かりますよ」と言ったのです。

目の状態を見ると、全身の健康が判断できるというのは驚きです。神はこのように、細部にまで配慮して人の身体を創造されたのです。ダビデの詩の一節が浮かびました。ダビデは詩篇の中で「私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています」と語り、神の創造の御業をたたえました(詩139:14)。

私たちの身体は、非常に複雑にできています。これは創造主の偉大な英知の反映です。神のデザインの素晴らしさは、息を呑むばかりです。さあ、神をあがめ、礼拝しましょう。

苦悩を通して強められる

教会の礼拝を締めくくる祝祷に、ペテロの手紙第一5章10節、「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」が用いられることがあります。その際、「あなたがたをしばらくの苦しみのあとで」という部分が省かれることがありますが、なぜでしょう。苦しみ云々と言うのが、心地よいものではないからかもしれません。

しかし、苦しむことが起こったとしても、驚くには値しません。使徒パウロは苦しみを十分に知っていた人ですが、彼は「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」と語ります(Ⅱテモテ3:12)。

私たちが神に従順に暗い(Ⅰペテ5:6)、サタンに立ち向かっている(9節)なら、中傷されたり、誤解されたり、相手に都合の良いように利用されたりするかもしれません。しかし、苦しみには目的がある、とペテロは言います。その目的は「(あなたがたを)完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者と」することです(10節)。

クリスチャンを成長させるために、神は試練の道を与えられます。私たちは、それによって強くなり、未来の嵐にも耐えることができます。神に栄光を帰する勇敢な人生を歩みたいと願う人たちを神が支えてくださって、その志を全うさせてくださいますように。

荒れ地が美しい庭に

春は、物事が常に目に見えているとおりとは限らないことを悟らせてくれます。すっかり枯れ果てて絶望的にさえ見えたところに、生命が芽吹きます。寒々とした裸の森が、緑豊かな景色に生まれ変わります。

冬の間、着物を求めているかのように裸の腕をのばしていた木の枝たちが、突然、緑のドレスをまといます。しぼんで地面に落ちてしまった草花も、「死んでないぞ」と言わんばかりに、土の中からむっくりと起き出してきます。

聖書にも絶望的な状況が描かれています。そのひとつは、ヨブという裕福な人の話です。ヨブは「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている」人でした(ヨブ2:3)。その彼を災いが襲い、すべてを奪っていきました。ヨブは苦難の中で「私の日々は…望みなく過ぎ去る」と言いました(7:6)。ヨブも彼の友人も、この災いは神がヨブに罰を当てたのだと考えましたが、それは全くの間違いでした。神は、ヨブの正しさはサタンに攻撃されても揺るがないと信じておられました。後日、神はヨブの生活も希望も回復させられました。

毎年、必ず春がやってくることは、絶望的な状況にいる人にとって慰めです。神がともにいてくだされば、絶望というものはありません。どれほど悪い状況に見えたとしても、神はそれを用いて、美しく栄光に満ちたものを作ってくださいます。

安らぎの家

建設会社の人事部に勤務していたときのことです。会社が隣の州の仕事を受注して、作業員たちの通勤時間が往復4時間ほどになりました。私たちは、彼らの負担を軽くするために、現場近くで宿泊施設を確保しましたが、同時に運転手付のワゴン車も手配して自宅通勤の希望者にも備えました。驚いたことに、ほとんどの作業員は自宅通勤を選びました。

その中の一人は、職場で一番気難しい人でした。ところが彼は、別人のような笑顔で最初の夜に帰宅したときのことを嬉しそうに話しました。彼は通勤という選択肢があることを話さず、家族をびっくりさせようと思っていました。案の定、彼が帰ると、妻と4人の息子たちは驚いて大喜びしたのです。後日、彼の妻は社長にお礼の電話をしてきました。そして、家庭が大切であることを分かってくれる会社には、家族一丸となって誠を尽くし、ずっと支えていくつもりだ、と言ったそうです。

イエスは永遠の住まいをあげようと言われましたが(ヨハ14:2)、そのおことばに弟子たちがどれほど慰められたかは、短期間でも自宅に帰ることができなかった人ならわかるでしょう。イエスは、「あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」(3節)とおっしゃったのですから、これ以上の喜びはありません。イエスとともにいられるのは最大の喜びです。

主イエスとともに住むために私たちは天の我が家に行く、とイエスは約束してくださいました。これは人生最大の慰めです。

苦難の岬

キャプテン・クックの名で知られる、英国の冒険家ジェームズ・クックの船は1770年6月10日、オーストラリア北東海岸の沖で座礁しました。彼は船を何とか深みに引き戻しましたが、再び岩礁に乗り上げ、今度は沈没しそうになりました。クックはこの経験について「北の地点を『苦難の岬』と名づける。すべての試練が、ここから始まったからだ」と航海日誌に記しています。

みなさんも、ひとつの問題がきっかけとなって、次から次へと試練に見舞われるという経験をしたことがあるかもしれません。その中には失業、病気、家族の死、不本意な離婚などが含まれていたかもしれません。

しかし、「苦難の岬」のような危機に直面しても、神が主権者であることに変わりなく、神がすべて掌握しておられることに違いはありません。神は試練を用いて私たちの中に抵抗力を養おうとされます。使徒ヤコブは、「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです」と書いています(ヤコ1:2-3)。「忍耐」と訳されている単語は、「留まる力」あるいは「耐える力」という意味です。

人生を一変させるような試練のただ中でも、神が働いておられることを思い出してください。神は、あなたの品性を培うために「苦難の岬」の経験を用いられます。また、そこを無事に通り過ぎるために十分な恵みを賜ることも、約束しておられます(Ⅱコリ12:9)。

お金

マリリンとスティーブンは結婚したばかりで、生活にゆとりはありません。しかし、マリリンはベッドカバーが傷んでいるのを見て、買い換えたいと思いました。クレジットカードで支払って、引き落とし日までには、何とかお金を作ろうと考えていました。

ところが、その日のデボーションの聖書個所を見て驚きました。それは箴言22章27節で、「あなたに、償うものがないとき、人があなたの下から寝床を奪い取ってもよかろうか」だったのです。マリリンは、お金の当てが確かでないのに、ベッドカバーを買うのはやめようと思いました。

お金の使い方は、私たちそれぞれと神との個人的な問題ですが、簡単ではない問題です。しかし神は、私たちを助けずに放っておいたりなさいません。神は言われます。「あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ」(箴3:9)。また、「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」とも語られます(マタ6:24)。

この真理を心に留めて、お金の賢い使い方を、他のみことばからも教えていただきましょう。例えば、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい」(ルカ12:15)、また「借りる者は貸す者のしもべとなる」(箴22:7)というみことばがあります。さらに、テモテへの手紙第一は「惜しまずに施し、喜んで分け与えるように」(6:18)と教えています。

お金は大きな問題です。私たちのすべての必要を満たしてくださる神は、神に栄光を帰すお金の使い方とはどういうものなのかも、きちんと教えてくださいます。

デビッド、よくやった

デビッド・シュムは、脳性麻痺に侵されながらも楽天的で、忍耐強く、信仰深い人でした。私たちは彼の葬儀で、彼の人となりを心からたたえました。彼の74年の生涯は、日常生活の簡単な作業さえも労苦する大変なものでした。にもかかわらず、笑顔を絶やさず、病院で2万3千時間以上もボランティア活動をしたり、家庭環境に問題のあるティーンエイジャーを支える働きに携わったりしました。

デビッドは生前、自分の葬儀の聖書朗読は、イザヤ書35章3節~10節にしてほしいと言っていました。「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。…そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ』」(3-4、6節)。このみことばは、捕囚の身となったイスラエル人に向けて語られた神の約束です。私たちクリスチャンにとっては、キリストが再臨されるという希望を再確認させてくれるみことばでもあります。

デビッドは生涯最後の数週間、見舞いに来る人たちに、ベッド脇にあるイエスの大きな絵を指して、「主イエスはもうすぐ、ぼくを迎えに来てくれるよ」と話していました。これは、神の子どもたちすべてに賜った希望です。だから私たちは、イエスに感謝し、イエスを賛美するのです。

語り伝えよ

映画制作者のジョージ・ルーカスは、どのように人々の記憶に残っていたいか、とワイアード誌のインタビューで尋ねられ、次のように語りました。「人々は私を映画制作者として覚えていてくれるでしょう。…願わくは、私が制作した映画のいくつかは、その時代においてもなお、今日的な意味を持っていて欲しいと思います。…子育てをしているときには、子どもに色々なことを教えなければなりません。さもなければ、子どもは苦い体験を通して思い知ることになります。ですから、『昔話(寓話)』を次の世代に受け入れられるような形に作り変えて、代々語り継がなくてはならないのです。私は『昔話(寓話)』以上のことはしていないと思います。それはこれからも語り続けられる必要があると思います。」

詩篇78篇の作者は、神の偉業が忘れられ、後の世代が何も知らなくなってしまう可能性に気づいていました。それで、神の救いの御業を飽くことなく子々孫々まで語り伝えようと、神の民に呼びかけました(4節)。その目的は単なる歴史の勉強ではありません。むしろ、自分たちの信仰に常にいのちを吹き込み、主なる神に対する従順と希望を持ち続けることです。不信仰に陥って神に背いた先祖たちの過ちを、後の世代が繰り返さないようにするためです(8節)。

私たちの人生に神の大きな力とあわれみが現れたのですから、私たちは忠実に神の物語を語り告げたいと願います。その結果として、次の世代の人たちが信仰を奮い立たせ、忠実に従うことができますように。