無人スタンド
我が家の近所には、自宅前の道路で野菜や果物、花などを売っている家がたくさんあります。私たちも時々、このような無人スタンドに行きます。自分の好きなものを選ぶと、そこに置いてある料金箱(または缶)にお金を入れます。そして家に帰ると、もぎたての新鮮な果物や野菜を堪能するのです。
さて、この無人スタンドは、みんなの誠実を前提にしていますが、すべての人がその心を尊重するとは限りません。
ジャッキーは花の鉢植えのスタンドを出しています。ある日、窓の外を見ると、つば広の大きな帽子をかぶった身なりの良い婦人がいくつもの鉢を車に乗せているのが見えました。ジャッキーは、売り上げは50ドルほどになるかしらと頭の中で計算してにっこりしましたが、後で料金箱を調べると、なんと中は空っぽでした。この女性には、誠実に行動するという前提は通用しなかったようです。
この人にとって、花を黙って取って行くというのは、大したことではなかったのでしょう。しかし、小さい事に対してどのような態度を取るかは、大きい事に対して誠実に行動するか否かを計る指針になります(ルカ16:10)。生活のすべての面で正直であることは、私たちの救い主、イエス・キリストに栄光を帰することです。
コロサイ人への手紙3章17節は「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし…」と語ります。クリスチャンにとって誠実とは、このみことばのとおりに行動することです。
過去の回復
後悔をしたことはないという人はいないでしょう。誤った選択を繰り返し、人生の歯車が狂っていくということがしばしば起こります。そのような状態が続く期間は人それぞれですが、間違った選択をすれば、その影響を心や身体に感じながら生きていかなければならないかもしれません。
私の友人に長年アルコールと薬物を乱用していた人がいます。神は、彼に驚くべき御業をなさいました。彼はアルコールと薬物中毒から解放され、もう25年、どちらにも手をつけていません。先日、25年間守られたお祝いをしました。彼は今や、繁盛する店の店主です。また、慈善団体で奉仕し、心優しく賢明なカウンセラーとして、人生の泥沼から這い出して更正しようとする人たちを支えています。夫思いの妻にも恵まれ、子どもたちはイエスを愛しています。
神は私たちを決して見捨てられません。たとえ間違った道を選んで悔やんでいたとしても、今をどう生きるかは、新しく選ぶことができます。後悔するだけで何も改めず、自分を傷つける生き方を続けることもできますが、「いなご、ばったの食い尽くした年々を償おう」(ヨエ2:25)と言われる聖書の神を信じて、キリストにすがることもできます。悔い改めて、神の癒しの力と解放の力を求めるならば、神はあわれんでくださいます。
過去の過ちが原因で今ある現実を帳消しにできない、というのは事実かもしれません。しかし、神はご自分を信頼する人たちに、ご自分の栄光を現す素晴らしい未来をくださいます。私たちは、それを確信することができます。
単純にしよう
アメリカ合衆国第4代大統領ジェームズ・マディソンは、この国の憲法の起草に尽力しました。彼は、「読めないほど膨大であったり、ごちゃごちゃしていて理解しづらい」法律を作ってはいけないと警告しました。私は役所に提出する記入用紙を読みながら、お役人たちはマディソン大統領の言葉にもう少しきちんと耳を傾けてほしいと思いました。
福音を人に伝えるとき、ことを必要以上に複雑化してしまうことがあります。うれしいことに聖書は、救いの良き知らせを明瞭で平易なことばで伝えています。イエスは、学識あるパリサイ人のニコデモに、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と語られました(ヨハ3:16)。また後に、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」とも言われました(14:6)。使徒パウロは、どうしたら救われるのか、と尋ねたピリピの牢獄の看守に、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と端的に語りました(使16:31)。
神の麗しいラブストーリーは単純です。神は、私たちを罪と死から救い出すために、ご自分のひとり子を遣わされました。子どもでさえ理解できる、素晴らしい話です。
野心は悪いもの?
野心は悪でしょうか。一番を目指して必死になってはいけませんか。そんなことはありません。問題は、何のために一番になりたいのかという動機です。
使徒パウロは、クリスチャンは「神を喜ばせる」ように生きなさい、とテサロニケ人への手紙第一4章1節で語りました。神を喜ばせたいという情熱に火がついたのは、救われた瞬間だったという人がいます。一方で、自分ではなく神を喜ばせたいという変化は徐々に起こったという人もいます。しかしどちらにせよ、クリスチャンは、神の目指すところを追い求めなくてはなりません。
というわけで、職場では「この仕事によって、私はどのように人に仕え、神に栄光を帰すことができるのだろう」と追求しつつ働きましょう。神の栄光を求めるなら、焦点は自分の外にあります。神を見つめ、他の人たちに目を向け、神が自分にどのような能力を与えてくださったのか、それをどのように用いるべきなのかを問い続けながら進みましょう。
パウロは、「主を恐れかしこみつつ、真心から」働きなさいと勧めます(コロ3:22)。会議室でも工事現場でも、どこで何をしていても、いつも神に対してするように行動しましょう(23-24節)。
自分の快楽でなく神の喜びのために、卓越を目指して熱い心で働くとき、私たちは最も神に栄光を帰しています。また自らも、最も神を楽しんでいます。自分の利を求めるのではなく、神と人の益を求めましょう。なぜなら、神は全てをささげるに値するからです。
イエスのチーム
人気のファストファッションの販売員はモデルのようなもので、店に飾ってあるのと同じような服を着ています。これはブランド戦略のひとつで、その背後にある考え方は、あの人たちのように見られたいと思って客は服を買う、というものです。
消費志向の社会にいると、私たちは物を売る人たちによって、見た目が良ければみんなに好いてもらえると信じ込まされています。そして、好感度を金で買おうと誘惑されるのです。それどころか、この世の人たちの目に自分の外見が魅力的に見えるなら、彼らをキリストの救いに導くことができるのではないかと思うことすらあります。
しかし聖書は、神にとって真に重要なことは何かを明らかにしています。それは、私たちの内面がキリストに似せられていくことです。ある意味で、イエスは私たちの「ブランド」です。というのは、私たちは神のかたちに少しずつ形づくられているからです(ロマ8:29)。私たちがキリストの品性を身に着けるなら、人はキリストに魅力を感じて引き寄せられてくるでしょう。それはつまり、「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」(コロ3:12)であり、何にもまして「愛」(14節)なのです。
私たちは、自分のイメージを守ったり高めたりするのではなく、神のイメージを映して守らなくてはなりません。そしてそれは、キリストを通して私たちの内に完成させられます。
あいしてる
夫婦で公営プールにいたとき、周りの人たちが空を見ているのに気づきました。小型飛行機が飛んでいて、煙で何かを書いていました。じっと見てみると、パイロットは「あ・い・し・て・る」と書いていきます。人々は、ひょっとしたらプロポーズではないかと推測し始めました。ロマンチックな男性が恋人と一緒に、どこか近くのバルコニーにいて、「結婚してください」と、今にも告白するのではないだろうかと。さらに見ていると、「あ・い・し・て・る、ジ」となり、若い女の子たちの「きっとジェンよ、もしかしたらジェシカかな」という声が聞こえました。パイロットはさらに書き続けました。すると、その名は「ジーザス」でした。彼は、イエスを愛していると多くの人たちに宣言したのです。
私の友だちは、「愛しています、主よ」といって、祈りを締めくくります。彼は「『愛しています』と言わずにはいられないんだ。ぼくのために、こんなにまでしてくれたのだから」と言います。今日の聖書のみことばはローマ人への手紙6章1節~11節ですが、使徒パウロはここでイエスの御業について語っています。イエスは十字架にかけられ、葬られ、復活しました。この御業のために、イエスを信じる私たちは、今新しいいのちを持っています(4節)。もはや罪や死の恐怖に支配されず(6節、9節)、キリストと永遠に生きるために復活します(8節)。このような御業は、私たちが心を込めて愛するのに、十分に値します。
「愛しています、ジーザス」と言うのは、当然です。
見えない危険
子どもの頃のこと、私たちの家族は危うく大惨事を免れたことがあります。当時、暖炉をはじめ家の主な設備は、ほとんど天然ガスを使っていましたが、ガス管からわずかにガスが漏れていて、私たちの生命をおびやかしたのです。小さな家にガスが充満し、私たち家族はガス中毒になって気を失ってしまいました。近所の人がたまたま立ち寄って発見してくれなかったら、私たち家族は全員、この見えない危険な敵に殺されていたことでしょう。
キリストの弟子である私たちは、自分が見えない危険に囲まれていることを知っています。誘惑という毒のある現実と、人間であるがゆえの弱さは、私たち自身や私たちの人間関係を危うくします。しかしながら、我が家のガス中毒事件とは違って、これらの見えない敵は、外からのものではありません。それは、私たちのうちに宿っています。ヤコブは、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」と書いています(ヤコ1:14)。
私たちは罪を犯してしまう性質を持って生まれてきました。また、目には盲点があって自分の弱点が見えません。これらは合わさって、私たちを間違った選択にいざない、破滅させてしまうかもしれないのです。しかし唯一、神に従うなら、神は私たちの心の状態を聖書のみことばを通して示されます。そして、みことばを行う人となって、主なる神に喜んでいただける人生を送ることができます(23-25節)。
小さな活字
ミッシー・サリバンはウォールストリートジャーナル紙に投稿して次のように指摘しました。製品に同封されている同意書、保証書、免責条項の多くは、ほとんどが読めません。わざと小さな活字にして、製品を購入しようとする客に読む意欲を失わせています。そのために、多くの人はほとんど読まずにサインします。大学でグラフィック・コミュニケーションを教えている教授は、新たに購入したスマートフォンに付いてきた32ページに及ぶユーザー同意書を指して、「あの会社は、これを読んでほしくないのだ」と言いました。
神はこれとは正反対です。神は常に分かりやすくて説得力のある方法で、ご自分の民にみこころを伝えようとされます。私たちを混乱させたり、だましたりしようとは決してなさいません。モーセは約束の地に入ろうとするイスラエルの民に語りかけました。「…私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものではない。…私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ」(申30:11、19、20)。
神は私たちにご自身のご計画と目的を明快に理解してほしいと願っておられます。そうして、神を愛し、御声に聞き従い、神にすがりついてほしいと願っておられます。なぜなら神は「あなたのいのち」であるからです。これは実に分かりやすい話です。