月別: 2013年5月

移り気な信奉者たち

世論とはなんと移ろいやすいものでしょう。過越しの祭りのとき、エルサレムに入城したイエスを民衆は喜んで迎え、王にしました(ヨハ12:13)。しかし、その週の終わりには、イエスを十字架につけるようにと求めたのです(19:15)。

この移ろいやすい民衆の中に、私は自分の姿を見ます。私は、勝っているチームを応援するのが好きです。チームが負け出すと、私の気持ちも離れていきます。新しくて刺激的な動きがあると、それにかかわりたいと思います。しかし、熱気が別のものに移っていくと、私の気持ちもそれにつられて移っていきます。私は、イエスが不可能を可能になさっているときは、喜んで主に従います。けれども、イエスに難しいことをするように言われると、尻込みして動くことができません。勝ち馬に乗るようにイエスに従うのはワクワクします。イエスが頭の良い人を出し抜いたり、権力者を打ち負かしたりなさるときにイエスを信頼するのは簡単です(マタ12:10、22:15-46を参照)。しかし、イエスが苦難や犠牲、死について語られると、私は戸惑ってしまうのです。

私は、自分だったら十字架までイエスに従って行っただろうと思いたいのですが、実は、あやしいところです。結局のところ、安全な場所にいてもイエスのために堂々と語れないのですから、大勢の敵に囲まれたら、いったい何ができるでしょう。

私は本当にイエスに感謝しています。こんな移り気な信奉者たちのために、イエスは死んでくださいました。そのことがあったので、私たちは、献身的な弟子になっていけるのです。

悲劇的欠点

文学の世界には、悲劇の主人公に性格的な欠陥があり、それが彼(彼女)を破滅に追い込んでいくというパターンがあります。これを「悲劇的欠点」と呼びますが、聖書のウジヤ王の場合は、まさにそれでした。ウジヤは16歳にしてユダの王となり、長い間、主を追い求め、主に従いました。神はそのようなウジヤに繁栄をお与えになりました(Ⅱ歴26:4-5)。ところが、変化が現れました。それについて聖書は次のように語っています。「彼の名声は遠くまで広まった。彼が驚くほど神の助けを得て強くなったからである。ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った」(口語訳 15-16節)。

ウジヤは神の命令に背いて、自らが祭壇で香を焚こうとし、主の神殿に入りました(16節)。おそらく、自分だけは特別で、神が全人類に与えられた戒めからも除外してもらえると思うほどに、心が高ぶっていたのでしょう。祭司はウジヤを諭そうとしましたが、ウジヤは居直って激しく怒りました。そのとき、神がウジヤにツァラアトを与えられたのです(18-20節)。

文学でも、現実の世の中でも、良い評判を誇った人が面目を失い、自分の名を汚し、苦しむのを見ることがあります。聖書は「ウジヤ王は死ぬ日までツァラアトに冒され、ツァラアトに冒された者として隔ての家に住んだ。彼は主の宮から絶たれたからである」(21節)と語ります。

称賛の甘い蜜が、おごりという毒に変化しないように注意すべきです。そのためにできる唯一のことは、謙虚な心で神に従うことです。

黙れ、静まれ

友人のエルイーズは、ものごとを正しい視点でとらえる賢い人です。あるとき、「調子はどう?」と尋ねたら、「悪くないわ」といういつもの返事のかわりに、「イエスさまを起こしに行かなくっちゃ!」と答えました。どういうことかと思ってさらに尋ねると、「あら、聖書に書いてあるでしょ」とにっこり笑います。そして、「弟子たちが嵐に遭ったとき、イエスさまを起こしに行ったでしょう。私も助けてもらいに行くところなの」と言いました。

抜き差しならない状態に陥って、逃げ道が見当たらないという場合、あなたならどうしますか。生命の危険さえ感じる嵐の中にいた弟子たちのように、私たちもイエスに助けを求めて走っていくかもしれません(マコ4:35-41)。けれども、時には、問題の発端となった人を中傷したり、復讐しようとしたり、もしくは嘆きの渕に落ち込みながら、恐れて身を隠したりして、問題を切り抜けようとします。

そんな私たちは、イエスを唯一の助けとして逃げ込んだ弟子たちから学ばなければなりません。たとえ、イエスが即座に問題を解決してくださらなかったとしても、イエスは同じ船に乗っていてくださいます。それが分かっているのといないのでは、雲泥の差です。

ありがたいことに、イエスは私たちが人生の嵐に遭遇するとき、いつもともにいて、「黙れ、静まれ」(39節)などとおっしゃってくださいます。ですから、嵐に遭ったらイエスを探してすぐそばにおられることを確認しましょう。そして、イエスがおられることの平安で心を満たしていただきましょう。

神の栄光を表して

私は子どもの頃から野球が大好きです。中でもデトロイト・タイガースの大ファンで、チームの活躍を楽しんでいます。成績が奮わず、シーズンの折り返し地点で負け越しているというようなときは、随分イライラさせられます。あるとき、これでは精神衛生上良くないと思って、タイガース断ちをしました。4日間、お気に入りチームに全くかかわらないように生活してみたのです。

私はタイガース断ちをしている4日間、慣れ親しんだものを放棄するのがいかに難しいか、しみじみと考えさせられました。しかし、神がそのように求めておられる場合もあります。

例えば、どこかで制限しなければならないと分かっていながら、ついついのめり込んで振り回されているような趣味があるかもしれません(Ⅰコリ6:12参照)。または、神に喜ばれるとは言えないような習慣やクセがあって、神を愛し、神の栄光を表わす生き方をするためには、きっぱりやめるべきだと分かっているのに、それができていないという場合があるかもしれません(Ⅰコリ15:34)。

自分の生活の中に、神との親しい関係を築くことを妨げるものがあると気づいたなら、それをやめましょう。主の助けにすがれば、そうすることができます。神は私たちに脱出の道を備えておられます(Ⅰコリ10:13)。また、御霊に属することをひたすら考えるように(ロマ8:5)、聖霊が力をくださいます。

神が助けてくださるように祈りましょう。主の栄光が照り輝くことを、私たちの中の何かが妨げてしまうことのないようにしましょう。

まことの犠牲

エリックは善良で正しい人でした。警察官という職務は地域社会に対する奉仕だと考え、すべてをささげて忠実に任務に励みました。それが彼の信念だったということは、自分のロッカーのドアにヨハネの福音書15章13節のみことばを貼っていたことでも分かります。

主イエスはここで、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」とおっしゃっています。エリックにとって、これは絵に描いた餅のような理想ではありませんでした。これはまさに、彼の警察官としての責任感を表わしていました。そして、その強い責任感は、彼に殉職という究極の犠牲を支払わせました。自己犠牲の精神を身をもって示してくれたのです。

イエス・キリストは、ヨハネの福音書15章13節の鮮烈なみことばを語られてから数時間のうちに、ご自分のみことばを実行に移され、全うされました。二階の広間でこのみことばを語られたあと、イエスは、ゲツセマネで父なる神とひとつになって交わりを持たれました。そして捕らえられ、数々の非合法的な裁判を経て、あざけり笑う民衆の面前で十字架にはりつけになりました。

イエスは神の御子ですから、苦痛や拷問、残忍な仕打ちを逃れようと思えばそれができたでしょう。イエスは全くの無実でしたから、死刑になる筋合いなどありませんでした。しかし、真の犠牲のささげものであるイエスは、その原動力である愛にかき立てられるように、十字架に向かわれました。そのおかげで私たちは、イエスの犠牲とよみがえりを信じて受け入れさえすれば、自分の罪を赦していただけるようになったのです。

さあ、あなたのために死を選ばれた方を、あなたは信じますか。

神の恩寵

ロバート・ロビンソン(1735~1790年)は若い頃、不良仲間といろいろな悪さをしていましたが、17歳のある日、マタイの福音書3章7節を主題聖句としたジョージ・ホイットフィールド牧師の説教を聞いて、キリストを信じて救われなくてはならないと自覚しました。主イエスはロビンソンの人生を変えてくださり、彼は牧師になりました。また、讃美歌も作詞していますが、中でも有名なのは聖歌273番「いのちの泉に」です。

私は、この聖歌に記されている神の驚くべき恩寵(おんちょう)について、このところ思い巡らしています。作者は、恵み深い神の恩寵が非常に大きいことを賛美していますが、それは、パウロの次の言葉に通じています。「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる…キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」 (Ⅱコリ5:14-15)。

自分が何かをした見返りとして神の愛や恩寵をいただくことはできません。むしろ、神が私たちに惜しみなく慈愛をほどこされるので、私たちは自らの生涯をささげて、この神を愛さずにはいられないのです。それが具体的にはどんな姿になるのかは分かりませんが、神のみそば近くを歩み、みことばに耳を傾け、神に仕え、従うことは含まれているでしょう。また、そうさせる動機は、愛と感謝です。

私たちはキリストに恩義があります。ですから、日々イエスのために生きていきましょう。このお方はご自分の命を捨てて私たちを救ってくださったのですから。

嵐の中の航海

古代アクスム王国は紅海に面したアフリカ大陸の東岸(現在のエチオピア)にありましたが、その国の人々は、季節風の強い風を帆に受けてスピーディな航海ができることを発見しました。激しい風雨を恐れてひるむのではなく、むしろ、嵐の中を航海する術を習得しました。

詩篇107篇は、神は私たちが嵐に見舞われることを止めようとはなさらず、むしろ、私たちが嵐の中を航行できるように助けてくださるという状況を見事なまでに描いています。それは「主が命じてあらしを起こすと、風が波を高くした。…この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ戻された」(25、28節)と述べています。

災難に見舞われたとき、神が助言し、導いてくださることを信じる、というのは聖書のテーマのひとつです。ヘブル人への手紙11章には、信仰を訓練するチャンスだと捉えて困難と向き合い、神の恵みや必要の満たし、また困難からの脱出を体験した人たちが列挙されています。「彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました」と語られています(ヘブ11:33-34)。

人生に嵐があるのは避けられません。問題に直面したときの最初の反応は、「ここから逃げ出したい」かもしれません。しかし、神を信頼して、嵐の中を航行する術を教えてくださいと願うこともできるのです。腹をくくって、そのように祈りましょう。

天の故郷

高校時代のある日の午後、親友と2頭の馬で、花咲く野原や木立ちをゆっくりと歩きました。ところが、そろそろ帰ろうかと思って馬の鼻を馬小屋の方向に向けたときのことです。二頭の馬たちは双子のロケットのように、一目散に駆け出しました。私たちの愛馬は、ブラシをかけてもらい、餌をもらえる時刻を知っていて、はやる心を抑えられなかったのでしょう。

クリスチャンにとって、まことの故郷は天国です(ピリ3:20)。それなのに、私たちは自分を「今」、「ここで」という世俗的なものに縛りつけてしまいがちです。私たちは、配偶者や子ども、孫たち、友人、やりがいのある仕事などに喜んで時間や労力を割きます。それらは神がくださったよいものです。けれども神は「上にあるものを求めなさい」と、チャレンジを与えてもおられます(コロ3:1-2)。「上にあるもの」とは、まだ見ぬ天国の恵みです。それは、神が恒久的にご臨在されること(黙22:3-5)、終わりのない休息があること(ヘブ4:9)、また、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐ」ことです(Ⅰペテ1:4)。

最近、「信仰が強ければ強いほどに、天国の資産を受け継ぐ望みが強くなる」ということばを読みました。ヘブル人への手紙11章に述べられている旧約聖書の人物は強い信仰の持ち主だったので、その信仰によって、まだ見ぬ神の約束をしっかりと受け取ることができました(ヘブ11:13)。そのような約束のひとつが天国です。神を信じるならば、神は「天の故郷」(16節)に対する望郷の念を与えてくださり、この世への未練が募らないようにしてくださいます。

見守る羊飼い

アイダホの羊飼いたちは、春になると羊たちを低地から山岳地帯へ移動させます。何千という羊の群れが山道を登って移動し、夏の牧草地に行きます。

私たち夫婦は先週、ショウ山で羊の群れを見かけました。羊たちは静かに流れる小川のかたわらの草地に寝そべっていました。詩篇23篇を彷彿させるような美しい光景でしたが、そこには羊飼いがいません。羊たちは、自分たちだけで群れているようでした。ところが、数匹が群れをさまよい出て渓谷の方に歩き出したときのことです。突然上の方から、鋭い笛の音が聞こえました。見上げると、羊飼いが群れを見下ろせる丘の上に座っていて、羊たちを見守っていました。彼のそばには1匹の山岳犬と2匹のボーダーコリーがいて、羊飼いの合図と同時に丘を駈け下り、迷い出た羊をもとの群れに戻しました。

主イエスは「良き羊飼い」ですから、あなたをこのように見守っておられます。あなたの目に神は見えないのですが、神の目にはあなたがはっきり映っています。神はあなたの名前を知っておられるし、あなたのすべてをご存知です。あなたは神の牧場の羊です(エゼ34:31)。神はご自分の羊を「救い出して、世話をする」(12節)と約束しておられます。「良い牧場」(14節)で養い、「傷ついたものを包み、病気のものを力づける」(16節)と語られます。

神は細心の注意を払って、あなたを守ってくださいます。あなたはそんな主に、自分を委ねることができるのです。