Month: 9月 2017

外も中も新しく

数年前、出版社が大失敗をしました。ある本の改訂版を出版したとき、新しくなっていたのは表紙だけで、中身は古いままだったのです。

新鮮な信仰

息子がヘロイン中毒だったとき、同じ苦しみを抱える家族のために神が用いてくださると言われても、信じる気にはならなかったでしょう。神は困難から良いものを生むお方ですが、渦中にいてそう思うのは至難の業です。

祈れない日々

開胸手術をする必要があると2015年の11月に分かり、私は少し動揺しました、当然、死が頭をよぎり、仲直りすべき人はいないか、妻や子の生活費は大丈夫かなどと考えました。術後すぐには働けないので、仕事の段取りなど、祈りと行動が必要でした。しかし、実際はどちらもできませんでした。私は肉体的にも精神的にも弱っていて些細なことも億劫でした。驚いたことに、祈ろうとすると身体の辛さに気が散り、心臓疾患で呼吸が浅いので、すぐに居眠りしました。私は苛立ちました。仕事どころか、生きながらえて家族と過ごしたいと祈ることすらできません。

天候に合った服

買ってきた冬物の服の値札を取ると、その裏に「警告:この革新的な商品はアウトドアから戻りたくないと思わせてしまいます」と書かれていて、にっこりさせられました。天候に合った服を着けるなら、人は、厳しい環境でも生きられるばかりか、元気でいることができます。

天国の名簿

聖書のみことば:ルカ10:17-24

あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。—ルカ10:20

ケニア航空のチェックインカウンターでパスポートを差し出すと、私の名前は乗客名簿に無いと言われました。予約再確認をしなかったからです。その日、帰宅する望みは露と消えました。

ここから連想するのは、もうひとつの名簿、すなわち「いのちの書」です。イエスは弟子たちを伝道旅行に送り出しました。彼らはその成功を喜びつつ戻ってきましたが、主は「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」と言われました(ルカ10:20)。私たちも成功だけでなく、自分の名前がそこにあるか否かを気にするべきです。それは確実でしょうか。その答えは、「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです」(ロマ10:9)というみことばの中にあります。

ヨハネの黙示録21章には、神を信じる人々を待つ輝かしい聖なる都が描かれています。しかし、「すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる」とも語ります(27節)。

「いのちの書」は天国の名簿です。あなたの名前はありますか。

神は、心を神に向けて開く人に向かって、天の門を開いてくださる。

巨人に勝つ

聖書のみことば:Ⅰサムエル記17:33-50

獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。—Ⅰサムエル記17:37

ワイリー大学は1935年、大学対抗の討論会で南カリフォルニア大学を打ち負かしました。テキサス州の無名の黒人大学が、白人の名門大学の強豪チームに勝ったのです。国の誇る巨人を無名の戦士が破ったという典型的な例です。

古代のイスラエル人がペリシテ人に攻められて危険な状態にあったとき、ダビデという少年が文字通り巨人に勝利しました(Ⅰサム17章)。両軍はエラの谷の両側に展開していました。おそらく彼らは互いを恐れて不安だったのでしょう。代表戦士の戦いによって勝敗を決しようとしました。ペリシテ軍はゴリアテという身長約3メートルの巨人を差し向けましたが、イスラエル軍には彼と対等に戦える勇猛な戦士がいません。ダビデはこの窮状を耳にして、どうかゴリアテと戦わせてもらいたいとサウル王に申し出ました(32-37節)。サウルは気が進まないながらも、彼を行かせることに承知しました。ダビデは、武具として5つのなめらかな石を用意し(40節)、全能の神にゆるぎない信仰をおいて(45節)戦いました。そして、ペリシテ軍の誇る戦士に打ち勝ったのです。

人は誰でも人生の巨人に脅かされています。それは、心配、疑い、恐れ、過ち、罪悪感などです。私たちは、みじめなほどに力も財もないかもしれません。しかし、持てるすべてを持ってきて、ゆるぎない信頼を全能の神に寄せて立ち向かうなら、私たちもダビデのように巨人に打ち勝つことができます。

神は愛される資格のない人を、ご自身の恵みによって自分のものとして愛される。

チャンスはある

聖書のみことば:Ⅱコリント4:16-18

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。—Ⅱコリント4:18

女子ワールドカップ・ドイツ大会(2011年)で澤穂希選手は、キャプテンとしてチームを優勝に導いただけではなく、自身も得点王に選ばれました。日本は強豪アメリカを相手に最初劣勢でしたが、チャンスをつかんで同点に追いつき延長戦に持ち込みました。そして延長前半の失点にもくじけず後半に追いつき、PK戦に持ち込んで勝ったのです。勝利の鍵は何かという質問に、澤は「チームワークと、決してあきらめない精神」だと答えました。

さて、「神をあきらめた」という人がいます。彼らは言います。神に助けてほしいと願ったとき、神はそばにいなかった…叶えてください、導いてください、信仰をくださいと必死で叫んだのに、応えてくださらなかった…。神はこうして、自分は存在しないか、存在していたとしても頼りにならないと証明したのだ…。

疲労困憊(こんぱい)の中で、日本はチャンスを物にしました。ここに示された信仰のレッスンは、シンプルです。強い信仰が欲しいと祈るなら、信仰を働かせるチャンスとして困難が与えられ、その中で信仰は強くなります。問題だと思っていたそのことは、実はプラスにつながっています。困難が栄光につながると使徒パウロが語っているのは、このことです(Ⅱコリ4:16-18)。神はそれを示してくださいました。

問題が起こってもぶつぶつ言わずに、目を高く上げ、神を信じてチャンスをつかみましょう。永遠に意味あるものを獲得しましょう。

問題の中から成長が育まれる。

野心は悪いもの?

聖書のみことば:コロサイ3:22-24

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。—コロサイ3:23

野心は悪でしょうか。一番を目指して必死になってはいけませんか。そんなことはありません。問題は、何のために一番になりたいのかという動機です。

使徒パウロは、クリスチャンは「神を喜ばせる」ように生きなさい、とテサロニケ人への手紙第一4章1節で語りました。神を喜ばせたいという情熱に火がついたのは、救われた瞬間だったという人がいます。一方で、自分ではなく神を喜ばせたいという変化は徐々に起こったという人もいます。しかしどちらにせよ、クリスチャンは、神の目指すところを追い求めなくてはなりません。

というわけで、職場では「この仕事によって、私はどのように人に仕え、神に栄光を帰すことができるのだろう」と追求しつつ働きましょう。神の栄光を求めるなら、焦点は自分の外にあります。神を見つめ、他の人たちに目を向け、神が自分にどのような能力を与えてくださったのか、それをどのように用いるべきなのかを問い続けながら進みましょう。

パウロは、「主を恐れかしこみつつ、真心から」働きなさいと勧めます(コロ3:22)。会議室でも工事現場でも、どこで何をしていても、いつも神に対してするように行動しましょう(23-24節)。

自分の快楽でなく神の喜びのために、卓越を目指して熱い心で働くとき、私たちは最も神に栄光を帰しています。また自らも、最も神を楽しんでいます。自分の利を求めるのではなく、神と人の益を求めましょう。なぜなら、神は全てをささげるに値するからです。

自分で偉大になろうとすれば、どんどんこじんまりしていく。

みじめな成功

聖書のみことば:ルカ9:18-27

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。—ルカ9:23

ジョージ・マクドナルド(1824-1905)は、スコットランドの小説家、詩人であり、キリスト教の牧師でもあります。彼は、「何をしたにしても、神抜きならみじめな失敗に終わる方が良い。さもなくば、もっとみじめな成功になるだろう」と記しています。この興味深い洞察は、マクドナルドの著書「語られなかった説教集」に記されており、今日の作家や講演家も引用することがあります。

イエスは「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです」と教えられました(ルカ9:23-24)。マクドナルドは、この「無私」の教えの適用を考えていました。

マクドナルドによると、「無私」は、私たちの心に上る自然な願いを抑圧しようとすることではありません。彼は述べました。「我々は、物事をキリストが見るように見、キリストが考えるように考えなければならない。神の意図なさることを、自分が全身全霊で達成しようとすることだと捉え、…『私は何をしたいのか』などという考えが浮かぶことは、もはやない。むしろ、『生きて働かれるあのお方は、私に何をさせたいのだろう』と考えるのだ。」

自分が欲しいものだけを得ているのは、みじめな成功者です。本当の成功は、イエスのために自分の「いのち」をいったん失い、それをより完全な形で神のみこころの内に見つけることです。

謙遜と無私の精神が先にあって、より親しく、より深く、神とともに歩むことができる。