Month: 4月 2018

競争の危険な面

競争願望は、放っておけば紛争になって、ごうごうと燃え盛る炎のように広がっていく。だからといって、競争を避けるべきだというのではない。しかし、人を押しのけたり、自分の人格(人としてのあるべき姿)を失ったりしても勝ちたいと願うようなら、自分の動機を見直す思慮深さが必要だ。

競争の危険な面をきちんと考察することで、競争の負の面を避けることができる。

貪欲という危険

誰だって給料をもらえばうれしい。これは自分がつぎ込んだ時間や努力、技術、献身などに対する金銭的な報酬だ。同じ給料をもらうにしても、ある人たちにとっては、うれしさの度合いもけた違いだろう。この競争社会において、一部の人は、信じられないほどの金持ちになるのだ。例えば、ある服飾関係企業のCEOは、 2007年に2,600万ドル(約24億5,200万円)も稼いだそうだ。これは、単純計算で毎月の給与明細が約2億円というのと同じだ。この人は、競合各社を徹底的に打ちのめした報酬として、巨額の給料をもらっている、といってもよいだろう。

これほどもうける人がいると、資本主義社会には「貪欲(どんよく)」という危険が存在すると、改めて気づかされる。最低賃金で働く人が、2千年働き続けてようやく手にするのと同じ額の報酬を、たったの一年で稼ぐ企業の野獣たち。彼らの心がどんなものか、私たちはもちろん、知る由もない。しかし、競争の世界で貪欲が台頭することは知っている。

それでは、 スポーツ界の競争について考えてみよう。 ここでも貪欲さと競争心がごちゃまぜになった例がある。あるメジャーリーグの投手は、「僕に大金を払って、失望した人はいないはずだ」と発言した。このように、より多い報酬を求めてばかりいると、いつか人間は、契約交渉に対する考え方までおかしくなってくるのかもしれない。

プロスポーツ選手向けのある雑誌は、何千万円もする腕時計や一泊数百万円のリゾートホテルの特集などを組む。こうして裕福な選手たちの貪欲さを刺激して、売り上げを伸ばそうとするのだ。

もちろん、金持ち選手たちの多くは、貪欲さを動機にしてスポーツをやっているわけではない、と反論するだろう。そうかもしれないが、選手とチームの間で繰り広げられる契約交渉をいくつか取り上げれば、「異常なまでの金銭的欲求」という「貪欲さ」の定義が、ある程度当てはまると一目でわかる。

人は競争によって、今以上の何かを手に入れようとするが、これは、お金に限ったことではない。例えば会社員なら、より高い役職、より良い待遇、より長い有給休暇などの優位性を得ようとする競争がある。フェアな姿勢を求められるスポーツの世界でさえ、プレーする時間やコーチに注目されることに貪欲になる。また試合中は、観客の称賛を得ることでやっきになる。

ルール違反の誘惑

近年、競争と言えばルール違反をして汚名を残した人たちを思い浮かべる、というのが大方のところだ。

ビジネスの世界では、裕福な企業のトップが罪を犯して、重役室から一転、刑務所の独房行きになってしまった例もある。競争で一歩先を行こうとすると、法律上の一線がぼやけてしまうことがあり(多分、先にも述べた貪欲さのせいだろうか)、優位な立場を得ようとして不正行為を働いてしまうことがある。スポーツ界では、選手たちが身体能力を飛躍させる薬物を使って、使わない選手たちを出し抜いたというスキャンダルが絶えない。彼らは、正々堂々とプレーするライバル選手たちの裏をかき、ずるいやり方で勝とうとした。

競争者たちは、周知のリーグ規則や明文化された法律があったにもかかわらず、一線を越えてしまったのだ。彼らは競争したが、競争自体がこのような違法行為を招いたのではない。また競争が告発のもとだったわけでもない。彼らは、正当な競争をせず、抜けがけを選んだ。問題の原因は、彼らが置かれていた状況ではない。彼らが判断を誤ったことだ。

不正行為があまりにも当たり前になってしまった一部のスポーツでは、「ズルくない奴はやる気がない」とまで言われる。これでは、ルールを守って戦おうとする選手たちの負担がさらに大きくなってしまう。

競争に勝った時の報酬があまりにも大きいので、ルールを曲げようが、 不当であろうが、とにかく優位な立場を得ようという衝動に、ついかられてしまう。

優先順位を間違える危険性

フランシス・A・シェーファー財団のウド・ミデルマンによると、スポーツは多くの人にとって、人生で最も魅力を感じるものになってきたそうだ。

頑張って競争していると、こうなりやすい。男女を問わず、競争したり、人が競争するのを応援したりするのが好きな人は大抵、非常に勝気な性格だ。大切な人との時間や、お互いを尊重した付き合いや、競争よりもっと重要な活動に関わることを犠牲にしても、 とにかく成功したいと考えるようになる。

ビジネスマンのグレッグ・ブルゴンドの説明によると、競争の真っただ中にいる人は、まるで勝利自体が神でもあるかのように、どんなものでも平気で犠牲にできるそうだ。彼はこう書いている。

「私の娘は、高校の時、バスケットボールの試合を見に来て欲しいと、何度も私に言ったものです。当時、娘は学校を代表するチアリーダーでした。そして私は、ある企業のゼネラルマネージャーでした。娘に対して、どうしても行けないと、もっともらしい理由をいろいろ並べ立てたのを覚えています。しかし、それらが何だったのか、今では思い出せません。覚えているのは、行ってやれなかったという事実だけです。その頃の私にとって、業界における自分の影響力より大切なものはありませんでした。」

さて、競争の場で、自分の意見だけが正しいと思って行動すると、大恥をかく。レフリーの判定に逆らって、立派なスーツを着込んだ大人が、かんしゃくを起こした子供のように振る舞うのを見て、がっかりした経験は誰にでもある。選手やコーチ、マネージャーが、試合が思い通りに運ばないことがあったからといって、わめいたり、暴れ狂ったり、腹の底から怒りを吐き出しているのをYouTube(ユーチューブ)で見たことがあるだろう。ビジネスや教会の役員会でもそうだ。メンバーたちが、自分の意見に固執したり、言い争ったり、恨みがましく意見をひっこめたりした様子を聞いたことがあるだろう。

競争に関わったがために、もっと良いことに関われない場合もある。例えば、野球観戦に夢中になること自体には何の問題もないが、一日に何時間もそれにかまけて、家族としての責任をないがしろにしたり、もっと価値のあることに時間をかけないような人は、優先順位を間違えている。試合観戦や応援にのめり込んだスポーツ・ファンが、日常生活をおろそかにし、家族との大切な時間を失っているという例が、実に多い。

競争は放っておくと、まるで悪い薬のように、私たちの心身をむしばんでいき、秩序正しい生活のリズムを乱し、優先順位を狂わせてしまう。そして、自分の人生をコントロールできなくなってしまう。Dave Branon

<<前の文章 l 次の文章>>

新しい世界に踏み出すときにのトップページに戻って関連するコンテンツを読む。

競争とは何か

1957年10月4日、ある出来事が、世界の二大グループに属する人々を真っ向から対立させ、激しい競争に落とし込んだ。この二大グループとは、二大国のことだ。国家の統治や哲学的な違いから、すでに対立関係にあったが、この事件の発生によって、両国は新たな全面競争の時代を迎えた。

今から50年以上も前のその日、当時のソビエト社会主義共和国連邦とアメリカ合衆国の、野心的な競争が始まった。ソビエトが史上初の人工衛星、スプートニクの大気圏外への打ち上げに成功したことにアメリカ政府が反応した。そして、両国間の競争、つまり、「宇宙開発競争」の幕開けとなった。

ソ連が打ち上げた83.6kgの人工衛星がアメリカ上空を通過した時、アメリカ国民は、ビーっという不思議な飛行音を短波ラジオで聞いた。そして、ソビエトに対する強烈な競争心をかき立てられた。アメリカ国民は、ソ連が技術的に勝っており、 上空からスパイ活動を行っているのかもしれないと恐れた。ソ連の発射する武器が、とうとうアメリカ大陸にまで届くようになったらしい、と考えたようだ。

ソビエトに脅威を感じるアメリカが、技術で遅れを取っていると気付いた時点で、 ソビエトに追いつけ追い越せの宇宙開発競争が始まった。スプートニクの事件は、競争のいろいろな面を浮き彫りにしている。第一に、競争が成り立つためには、通常、敵対する二者が必要だという点が挙げられる。

スプートニク事件以前のアメリカでは、(NASAが設置される以前の話だが)宇宙開発計画に関わる政府の官僚たちの中にソビエトの人工衛星構築を真面目に受け止める者はいなかった。当時のアメリカで競争を語るとき、ソビエトは過小評価されていた。アメリカは、よもや先を越されることはないだろうとのんびり構えていたのだ。しかし、ソ連が宇宙計画の成功を発表するやいなや、言い換えれば、米国民が共産主義国の脅威を感じるやいなや、アメリカは素早く行動に出た。スプートニクの打ち上げで、以前にはなかった競争状態が発生した。

ほとんどの競争では、最終的に手にするものを争って二者が闘う。目指すものは、スポーツならば優勝トロフィー、ビジネスならば顧客の獲得や金もうけ、政治ならば政権、宇宙開発競争ならば国際戦略上での優位な立場だ。

しかし、競争には、必ずしも対立する相手が存在するというわけではない。時には、敵の見えない孤独な競争もある。例えば、あなたが営業マンなら、これまでの自分の販売成績と競っている。もし、走るのが趣味だったら、自己ベストを上げるために、ストップウォッチと競争するだろう。つまり、あなたは、対戦相手無しで競争している。それは、宇宙を舞台にしたけんか騒ぎに、アメリカが飛びこむ以前のソビエトの姿に似ている。

二つ目の特徴は、競争状態は、焦点を明らかにする、つまり「目標」を生みだすことだ。そして、目標達成のためには、こんなにも必要だろうかと思われるほど努力する。スプートニク事件以前のアメリカには、宇宙ロケットの開発に従事する人たちはいたものの、効果的な運用に対しては、軍部関係者の間にさまざまな意見の対立があった。しかし、ソビエトの打ち上げに驚いたアメリカは、巻き返しを狙うため、中央機関を設けて活動し、目的達成に注力し始めた。その目標とは、もちろん宇宙開発技術でソビエトをしのぐことだ。そうして、米航空宇宙局(NASA)は、アメリカ全土の知力を中央に集中させた。その後、ジョン・F・ケネディ大統領によって、あらゆる小規模の目標が一つの偉大なる目標に結集されたのだ。1961年5月25日、ケネディ大統領は、「我が国は、今後10年以内に人類を月面に着陸させ、安全に地球へ帰還させるという目標達成のために全力を傾けて取り組むべきだと考える」と大胆に宣言した。

さて、第三に、競争には「改善への動機」を生みだすという特質がある。この時点でアメリカは、現状に甘んじてはいられなくなっていた。NASAの設立だけでなく、一般庶民のレベルに関してもそうだ。アメリカ全土の学校に対し、数学や科学の教育を強化するように指導が出された。なぜなら、ソ連のスプートニク打ち上げ成功は、 教育レベルにおいてもアメリカがソビエトに遅れを取っている証拠ではないか、と危惧したからだ。

この競争の結果は、誰にも予想できないものだった。実際、国と国とが競争関係に陥ったらどんな結末を迎えることになるか、思い描くことも不可能だった。一般には、人を乗せたアメリカ製宇宙船の月面着陸が、米ソ宇宙開発競争におけるアメリカの成功を示すものだと考えられている。けれども、実際の成果は、それ以上のものだった。

最終的に、この競争は逆の結果、つまり協力関係を誕生させた。1975年にアメリカとロシアの宇宙飛行士らが、大気圏外空間で握手するに至ったのだ。宇宙開発競争は、歳月を経てさまざまな開発や発見をもたらし、月面に立つこと自体の価値よりもっと大きな影響を人類に与えることとなった。

偉大なる競争は、ふとしたきっかけから、次のようなものにつながった。インターネットの前身ともいえるARPANET(アーパネット)、超音波エコー、GPSシステム、そしてインスタントコーヒーなどがある。このように競争は多くの場合、思いがけない結果を生みだす。

だから競争とは、目標のため、または限りある資源を手にするための闘いであり、多大な努力と自己改善が要求される。

競争自体は、良いものでも悪いものでもない。目標を達成しようとする動機や方法次第で、大きな益をもたらすこともあれば、大きな害につながることもある。

競争には結果がある。思い通りの結果もあれば、予想外の結果もある。だから、慎重に参加すべきだ。Dave Branon

<<前の文章 l 次の文章>>

新しい世界に踏み出すときにのトップページに戻って関連するコンテンツを読む。

どこもかしこも競争だらけ

「どうもMacです」「こんにちはパソコンです」というせりふで始まる、ユーモラスなCMを見たことがあるだろう。とても人気のCMシリーズだ。このシリーズが素晴らしいのは、MicrosoftとAppleという世界的な二大パソコン企業の熾烈(しれつ)な闘いをユーモラスに描写していることだ。

楽しく笑える広告の裏にも、非常に真剣な競争の世界がある。 実際、限られた資源をめぐる争いは、21世紀の私たちが直面する現実だ。

国際的にみると、石油や食物など主要商品を手に入れるために、各国が競い合うようになってきたのは明らかだ。以前は、ものの考え方や国境、生活様式などの違いが、いつも国同士の争いのもとになり、戦場での闘いにつながった。しかし、地球の資源が減っていく中、国家間の競争には新たな側面が表れてきた。

国内では、政治的な競争がある。ライバル同士が政権を取ろうとやっきになって戦う。国民の信頼を得て票を勝ち取るために、独自の政策の利点をあれこれと述べ立てる。選挙というものは、実に個人的感情に左右される厳しい競争の一例だろう。

各家庭の状況、つまり私たちの実生活に置き換えて考えてみよう。毎日のいろいろな場面で、競争が起こっている。例えば、就職活動、成績アップ、入試など、どれをとってもそこには競争がある。また、普段買い物をする店は、一円でも多くもうけるために競争している。それから、私たちは、注目を浴びたり、 好意や愛情を受けたりするために競争する。

私たちは、遊びの場でさえ競争している、草野球では、優勝トロフィーをめぐって競争する。

スポーツチームのファンたちもそうだ。よく考えてみれば、自分と自分のお気に入りのチームをつなぐ関係は単に住んでいる場所だけなのに、相手チームとの応援合戦がすさまじい闘いに様変わりしてしまうことがある。その一例が2008年、ニューヨーク・ヤンキースのファンが、ボストン・レッドソックスのファンとけんかになり、相手を車でひき殺してしまった事件だ。

日常生活において、 競争を無視することはできない。

そんな中で、私たちには、競争の準備ができているだろうか。日々激しくなっていく競争社会と向き合う準備ができているだろうか。競争の価値や利点、欠点、社会道徳的な問題点についてじっくりと考えるひとときを持ったことがあるだろうか。どうしたら、神にも人にも恥じることなく自信を持って、この競争社会を生き抜くことができるか、今こそ、考えてみるべきではないだろうか。Dave Branon

 次の文章>>

新しい世界に踏み出すときにのトップページに戻って関連するコンテンツを読む。

遺産を遺す

息子たちと人里離れたアイダホ州の牧場で過ごしたことがあります。サーモン川の近くです。散策していると墓がありましたが、木の墓標に書かれた文字は、ずいぶん前に消えてしまったようでした。この地で生まれ死んでいったその人は、今は忘れられています。私は悲しくなり、その辺りの歴史を調べましたが、あの墓に葬られた人を見つけることはできませんでした。

苦しみの中の強さ

サミーが18歳でイエスを信じたとき、家族に勘当されました。家は伝統の宗教を信じていたからです。そこでキリストの教会は彼を受け入れ、励ましたり、学費を援助したりしました。その後、サミーの救いの証が雑誌に載ると、家族の迫害はさらにひどくなりました。

フェアプレイ

東南アジア競技大会のシンガポール代表、マラソン選手アシュリー・リウは、自分が先頭にいるのはなぜだろうと思いました。何と強豪選手たちがコースを間違い、後方にいるではありませんか。リウは、そのままにすることもできましたが、スポーツマンシップに反すると思いました。これで勝っても実力ではありません。他の選手のミスのためではなく、誰より速く走って優勝したいのです。彼は自分の信念に基づいて速度を落とし、後続の選手たちを待ちました。

慰め人となる

別れ際に「神があなたを遣わしてくださったのね」と、その人は言いました。私たちはシカゴに行く機内で、通路を挟んで隣どうしでした。フライトを乗り継いでとんぼ返りすると言うので理由を尋ねると、うつむいて「娘を薬物中毒の更生施設へ送って行った」と答えました。私は静かに、自分の息子がヘロイン中毒だったこと、そして彼が、どのようにキリストに助けられ、麻薬から解放されたかを語りました。彼女は涙して聞いていましたが、やがて、にっこり微笑みました。飛行機が着陸すると、私たちは彼女の娘のために祈りました。

自分が聞きたいこと

人は、自分の考えを支持する情報を求めがちです。ある研究によると、私たちは自分に都合のよい情報を、そうでない情報の2倍も集める傾向があるそうです。自分の考えに固執していると、それに疑問を投げかける意見を避けてしまいます。

家の前でほっと一息

猛暑のある日、8歳のカーマインは、郵便配達員が熱中症にならないように、スポーツドリンクと水を入れたクーラーボックスを自宅の門の前に置きました。家の防犯カメラには、郵便配達人が「すごい!水とスポーツドリンクだ。神さま、感謝します!」と喜ぶ映像が残っていました。「カーマインは、郵便屋さんに冷たい飲み物をあげるのが自分の責任だと思っているのです」と彼の母親は語ります。