王にはできる
聖書のみことば:マタイ19:16-26
神にはどんなことでもできます。—マタイ19:26
誰でも子どものころには、お気に入りの童話があるものです。私は「鏡の国のアリス」 に登場するハンプティ・ダンプティをよく覚えています。大きな卵形をした体に細い足と腕がついていて塀の上に座っていますが、最後には落ちて粉々に砕けてしまいます。「そろって助けに行ったけど、とうとう元には戻らなかった」というくだりを読むたびに、子ども心にも、絶望的な状況というものの痛みを感じました。
その後、私は、キリストを救い主として自分の人生にお迎えしました。そして、どんな絶望的な人生でも立て直される、力強い主の御手があることを知りました。私は、麻薬に冒されて再生不可能のレッテルを貼られた人々が、キリストを信じることでまったく新しくされていく素晴らしい事実に、何度も立ち会いました。私は、ハンプティ・ダンプティの話に、こう付け加えることにしました。「王様の馬と兵隊にはできなかったけれど、王様にはできるんだ!」
もうやり直しはきかない、と思っていませんか。主の救いから来る助けが及ばないほど、ひどい絶望は存在しません。「神にはどんなことでもできます」と主は言われます(マタイ19:26)。どうしようもないほど壊れてしまった人生でも、あきらめないでください。どんな人生でも繕ってくださる王がおられます。
神の御手は壊れた心を繕ってくださる。
最後まで頼りになる人
聖書のみことば:詩篇91
私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。—詩篇91:2
ルイス・アルバート・バンクス著の『漁師と友人たち』に、船上で寝ずの番に当たっていたふたりの男の話があります。夜中、荒れ狂う嵐の中、そのうちのひとりが高波にさらわれました。彼は、甲板の上の囲われた場所にいたのにおぼれ、もうひとりは、波をまともに受ける場所にいたのに助かりました。何が明暗を分けたのでしょう。波にのまれてしまった人には、しがみつく物がなかったのです。
これは人生の試練に直面した人たちを、何とよく例えた話でしょう。順風満帆のときには自分の力で何でもできますが、厳しい状況に見舞われると足元がぐらつきます。神に助けていただくことを拒否し、すがりつくものを何も持たないために、人生の苦しみに簡単に圧倒されてしまいます。
これに対して、主にすがる人々は、逆境の激しい嵐を乗り切ることができます。「主がおられなかったらやっていけないよ」が、彼らの口癖です。天におられる御父が、いついかなるときも力づけ、守ってくださることをよく知っているのです。
神に希望を託す人は、どのような状況下でも頼れるお方を、自分の人生の中に持っています。彼らは神に向かって「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と賛美することができます(詩91:2)。あなたはどうですか。
神は順風満帆の人生を約束するのでなく、荒波にのまれないよう助けようと約束してくださった。
孤立無援
聖書のみことば:詩篇31:14-24
あなたは私の願いの声を聞かれました。私があなたに叫び求めたときに。—詩篇31:22
南極では闇に包まれた冬が9ヶ月にわたって続き、気温はマイナス82度まで下がります。航空機の離着陸は2月下旬から11月まで休止するので、点在する観測基地で働く隊員たちは、外の世界から切り離されたも同然の状況になります。助けを求める叫び声が、神にさえ届かないように思えます。詩人ダビデは苦境で「わたしはあなたの目の前から絶たれたのだ」と言い、主に忘れられてしまったのではないと気づくと、喜んで「あなたは私の願いの声を聞かれました。私があなたに叫び求めたときに」と賛美しました(詩31:22)。
今、なすすべがない、と途方に暮れてしまうような状況に置かれていますか。身体を壊したり、人間関係につまずいたり、家族に大きな問題があるでしょうか。しかし、イエス・キリストの贖(あがな)いの愛は、その厳しい冬の現実の中に介入してくださいます。そして、状況はどれほど絶望的であっても、私たちの心に平安をくださいます。
神の偉大な力と平安は、いつも私たちを支えています。孤立無援になることは決してありません。
神の助けは、祈りのすぐそばにある。
重荷は主に
聖書のみことば:詩篇55:16-23
あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。—詩篇55:22
アイルランドの貧しい男がジャガイモの入った大きな袋を背負い、家に向かってとぼとぼと歩いていました。すると馬車が通りかかり、御者が、乗っていかないかと声をかけてくれました。男は馬車に乗り込んで腰掛けましたが、重いジャガイモの袋を抱えたままでした。
御者が、袋を床に置いたらどうかと言うと、男は答 えました。「これ以上、旦那に迷惑をかけたくないんでさあ。あっしを乗せてくださっただけで十分だ。ジャガイモくらい、自分で抱えますぜ。」
なんて愚かだろうと私たちは思います。しかし、人生の重荷を自分の力で背負おうとする私たちは、この男と同じことをしているのです。そんなことをすれば、不安や恐れに圧倒されたり、人生に疲れてしまったりしても仕方がありません。詩篇55篇でダビデは、敵の攻撃を受けて不安を口にしています(1-15節)。しかし、ダビデはすべてを神に委ねて、希望と自信を取り戻しました(16-23節)。だからこそ、「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる」と言うことができたのです(22節)。
ジャガイモの袋を抱えた男の話を思い出すとき、この話の教訓も一緒に思い出しましょう。人生の重荷 を自分で背負わずに、神の御手に委ねましょう。
神は、厄介ごとがあるなら、私に厄介になりなさいと言われている。
神は信頼できるお方
聖書のみことば:詩篇84
万軍の主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。—詩篇84:12
窓辺にある椅子に腰掛け、木立の向こうの山をぼんやり眺めていました。ふと気づくと、一匹のキツネが私を見上げています。まるで置物のように、じっとしています。
数日前、そのキツネを 木々が茂る庭先で見かけました。振り返って見つめる目は、不安げでした。私は台所へ行き卵を取ってくると、キツネのいた場所にそれを転がしました。それから毎日、庭の芝生の上に卵を置くと、キツネはゆっくり用心深く近づき、それをくわえると走り去っていきました。しかし今では、戸口まで卵を取りに来ます。たぶん、私を信用するようになったのでしょう。
私の妻は、これはダビデの「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ」(詩34:8)という勧めのようだ、と言います。どうすれば、こうできるのでしょう。神のみことばを受け取ることが出発点です。聖書を読んで、神の情け深さと愛を味わえば、このお方は信頼できるとわかってきます(84:12)。恐ろしくて近づけない、ということはなくなります。神に対する恐怖心は、健全な畏敬の念に変えられるでしょう。
キツネが最初は用心深かったように、あなたも今は神を信じ切れない、と感じているかもしれません。しかし、神に賭けてみませんか。必ず「あなたを愛 している」という事実が証明されます。福音書に記されたイエスの生涯を読みましょう。詩篇に記された賛美の歌を読みましょう。神の素晴らしさを、味見してみましょう。
神の愛が届かない人など、ひとりもいない。
交わりが途切れる
全地が暗くなり、やがて悲しみにあふれた叫び声が響きました。十字架のもとにいたイエスを愛する人たちの嘆き声も、イエスの両側ではりつけになった犯罪者のうめき声もかき消してしまい、全ての人が驚いたに違いありません。ゴルゴダの丘で十字架にかけられ、イエスは苦悩と恥と絶望の中で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。それは「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です(マタ27:45)。
言葉にできない
先日、仕事を終えた妻を迎えに行こうとして、スマホの音声入力を使い「ママ、どこに迎えに行けばいい?」とメールを送りました。子どもたちが巣立った後も、親しみを込めて妻を「ママ」と呼ぶことがあるからです。しかし、音声入力装置はこの言葉を聞き違えて「ババ」と文字化してしまいました。
水平線を見つめて
フェリーが動き出すとすぐ、幼い娘は気持ちが悪いと言いました。しばらくすると私も吐き気がしてきました。私は「水平線を見つめて!」と自分に言い聞かせました。船乗りはそうして平衡感覚を取り戻すと言うからです。
最後の招集
ジェームスは米軍のヘリコプターのパイロットとして20年間勤務した後、故郷に帰って教師となりました。しかしヘリコプターが大好きだったので、ドクターヘリのパイロットになって、かなりの年齢になるまで働きました。