Month: 7月 2018

一番心配なこと

自分は死にゆく者だと思うときほど我が身の無力さを感じるときはないでしょう。生命が燃え尽きるとき、死の向こう側には何があるのでしょう。聖書によれば、天国と地獄があるといいます。そして、地獄の存在は、確かに不安の種です。

「あなたは天国にいけると思いますか。」と尋ねたなら、ほとんどの人は、「そうあってほしいですね。」とか「自分はそれほど善人ではないかもしれない。」とか答えます。もしこの人たちが自分に正直に語るなら、地獄に落ちると考えただけで身震いする、と言うでしょう。しかし、私たちが天国を目指して歩んでいるかどうかを間違いなく知る道がある、と神は聖書を通して語っておられ、その理由も述べておられます。

第一に、私たちが天国に行く資格は、キリストによって与えられています。キリストは完全無欠な生涯を送られたのち、私たちの罪の代償を支払うために十字架にかかって死に、死からよみがえりました。こうして神は、キリストが私たちのために払った犠牲を受け入れた、と証明してくださいました。これは神の愛の奇跡です。私たちはこれ以上何をすることもできません。

第二に、天国への道は苦行や善行ではなく信仰です(エペソ2:8~9)。キリストの死をとおして赦しを差し出してくださった神の愛に応える行為は、主イエスを信じることです(使徒16:31)。救いは神の恩寵によって与えられる無償の賜物で、私たちの霊的渇望を満たしてくれます。

イエスを神と信じ、このお方は自分のために死んでくださったと認めるなら、間違いを犯したので天国にはもう行けない、と思い悩む必要はありません。私たちは、イエスがとりなしてくださるので、神に受け入れられています。神は、御子を無視するのでなければ私たちを無視することはできません。そして、そのようなことは決してなさいません。ですから、イエス・キリストを信じるなら、永遠をどこで過ごすのかという問題を心配する必要はまったくありません。

「心配でたまらない」

英夫さんと妻の恵子さんは心配でたまりません。英夫さんが37年間勤めてきた工場の生産量が25~30%カットされるかもしれないという噂が、何ヶ月もささやかれていました。もし本当なら、英夫さんのような中間管理職も含めて、多くの人がリストラの対象になるのは確実です。そして、今月末にリストラが実施されるらしいという情報が、会社側から漏れてきました。

ふたりは、先行きの不安で気が滅入っていました。将来についての疑問が次々と心に浮かんできました。「リストラされたら食べていけるのか。家のローンはどうすればよいのか。収入がないのに、年金や健康保険、生命保険の毎月の掛け金をどうやって支払えばよいのか。56歳でどんな再就職先があるのだろう。恵子も働きに出なければならないのか。」月末が近づくにつれ、英夫さんは口数が減り、内にこもりがちになりました。恵子さんは恵子さんで、夜中に目が覚めて眠れない夜が続きました。彼らは、本当に心配していました。

英夫さんも恵子さんもクリスチャンです。教会の礼拝には欠かさず出席し、霊的に成熟したクリスチャンであると自認しています。この夫婦は、クリスチャンは心配すべきではないと思っています。牧師は、「神様が、あなたがたの面倒を見てくださいますよ。」と言ってくれました。彼らもそう信じていますし、それについて祈りもしました。しかし、依然として不安はなくなりません。

私たちも、多かれ少なかれ、このふたりと同じような境遇にいます。人は、心配ごとを抱えて生きているのです。たとえば、アメリカでは、精神的な病気の第一位を「心配」が占めています(マイナース・マイヤー・ホーキンズ著『心配のない生活』17ページ)。心配とは、パニックになりそうな状況に置かれたときに体験する心理状態で、口の中が渇く、息苦しくなる、涙が止まらない、などの症状を引き起こすことがあります。また、原因がはっきりとはわからないが、すべてを破壊してしまうようなひどいことが起こるかもしれない、 という漠然とした恐怖感がいつまでも続く状態だ、と言う人もいます。さらに、心配とは、他の人が自分のことを好きになってくれないのではないか、また、自分の服装や話し方を嫌うのではないかと恐れることだ、と言う人もいます。

あるクリスチャンの母親は、イエスを自らの救い主であり主だと告白しないまま成人した自分の子どもたちがこのまま救われないのではないかと思うと心配でたまらず、 カウンセリングを受けました。彼女は、夜中に目が覚めると、そのことを考えてしまいます。 神が子どもたちを救ってくださると自分が本当に信じているか、何度も自分に問いかけました。彼女は、ついに心配で何もできなくなり、そんなことではいけないと思いました。

クリスチャンは、イエス・キリストを神と信じる信仰のおかげで心配ごとなどない、というわけではありません。クリスチャンも、他の人たちと同じように社会から様々なプレッシャーを受けて生活しています。また、クリスチャンだからこそ心配になることもあります。「クリスチャンの親として、また、妻として(あるいは夫として)、失敗してはいけない。」とか、「近所の人たちの前にも立派に生きなければ。」と考え、それができるのだろうかと心配になります。

自分は心配性だ、と思うと、それが新たな心配の種になったりします。心配してはいけないとわかっていても、心配してしまいます。そのようなときは、どうしたらいいのかわかりません。

本冊子は、聖書的かつ実際的な視点から、心配ごとへの対処法を分かち合うために書かれました。そもそも心配ごととは何でしょう。なぜ人は心配するのでしょう。聖書はそれについて何と言っているのでしょうか。これらを理解すれば、心配ごとをバネにして霊的に成長できます。

惜しみない愛の表現

夫のアランは、結婚記念日に必ず大きな花束をプレゼントしてくれます。しかし、彼がリストラされた年には、さすがに、この贅沢なプレゼントを期待していませんでした。ところが、その19回目の結婚記念日、色鮮やかな花束が、いつもどおり私を迎えてくれました。夫は恒例の愛の贈り物を買うために、毎月少しずつ貯金していてくれたのです。

自分のことを脇に置いて

芝生に倒れている巨木に比べて、そばに立っていた人たちは小人のようでした。杖をついた高齢の女性が、前夜の嵐がこの堂々としたニレの木を吹き倒したと言いました。唇をわなわな震わせ「美しい石の壁も壊れてしまったわ。結婚した時に主人が造った壁よ。ふたりして大好きだったのに。なくなってしまったわ。彼が逝ってしまったように」と嘆きました。

完全なる不完全

完成をズルズル引き伸ばす癖のある私に、大学の恩師が「完璧を『良し』の敵にしてはいけない」と忠告してくれました。完璧を求める余り失敗を恐れ、成長に必要なリスクさえ回避しがちになるのは賢明ではありません。自分の作品には常に改善点があることを受け入れるなら、成長しつづける自由を手にします。

理由を知るイエス

ある程度回復したものの完治には至らず、病気と闘っている友がいます。依存症から立ち直ったものの、過去の失敗を後悔して自己嫌悪と闘っている人もいます。神はなぜ、一遍に解決してくださらないのだろうと思います。

注意深く見守る

学校に向かって駆け出そうとしていた息子に「歯は磨いたの?」と尋ねました。そして、正直が大切な品性だと念を押しながら、再度、同じ質問しました。ところが、母親が優しく諭してくれていると気づいて感謝する様子もなく、息子は「洗面所に隠しカメラをつけたら」と冗談めかして答えました。そうすれば、彼が歯を磨いたかどうかを確認できるし、自分も嘘をつく誘惑に駆られずに済むではないかと言うのです。

それでも希望がある

デイリーブレッドに1988年以来、多くのデボーションエッセーを書いていますが、忘れられないものがいくつかあります。ひとつは90年代半ば、娘3人がバイブルキャンプや宣教旅行などに行き、6歳の息子とふたりで空港見学に行った話です。息子は振り向いて「メリッサがいないとあまり楽しくないね」と言いました。二歳年上の姉で彼の相棒です。