基本に戻るー言いたいことを一方的に言うのではなく、神と語り合う
確信を持って祈ることを妨げる理由はいろいろありますが、よくあるのは、神が自分の祈りを聞いてくださらないと感じることです。私たちは自分を、新聞のスポーツ欄を読んでいる夫に話しかけようとしている妻や、音楽を聴いているティーン・エイジャーの息子に話しかけようとしている父親のように感じることがあります。相手からは話を聴いているという意思表示はなく、まったく無反応です。
もし、祈りがこのようだったら、「祈りは、単なる儀礼だ。」と思うようになります。そうなると、神が私たちのことをとても気にかけてくださっているという真理、また、私たちの祈りの一言ひとことに真剣に耳を傾けてくださっているという真理を見失ってしまいます。祈りは、生きて働き、人を愛される神との霊の交わりであるべきです。
A・W・トーザーは、『神を追い求めて』という本の中で、「神は人格を持ったお方です。ですから、人と人との関係がそうであるように、神との関係を深めていけます。しかし私たちは、この事実を、ほとんどまったくと言っていいほど忘れてしまっています。」と書いています。神が私たちの祈りを聞いておられないと感じるときには、祈りに関するふたつの重要な側面に注意を向けなければなりません。
確信を持って神のおっしゃることに耳を傾ける。祈りは、神に向かって何かを一方的に言うことではありません。聖書を通して、神がすでに語られたことと、今も絶えず語っておられることに思慮深く応答することです。それゆえ、聖書は、神と絶えず語り合うために重要な役割を果たしています。
神と会話できるようになるためにはいくつかの方法が考えられますが、そのひとつは、 詩篇かパウロの手紙を読むことです。聖書を丹念に読んで、神が何を考えておられるのか、どのような感覚を持っておられるのか、また、どのような価値観をお持ちなのかを考えてみましょう。みことばに霊感を与えたお方が考えておられることを、慎重に、また、敬意を払いながら見極めてください。みこころが何なのかを知ることができるように、神に助けを求めてください。そして、あなたの心の中にあることと、みことばが示していることをつき合わせてください。そうすれば、神にとって大切なことは何かがはっきりわかるようになります。そして、神があなたの心の中でどのように働かれているのかもわかるようになります。
たとえば、コリント人への手紙第一の13章に書かれているみことばを読んで、祈るように促された夫がいたとしましょう。彼は、この個所から愛とは何かがわかり、それを自分と妻との関係に適用しようとしました。自分が、妻をいかにぞんざいに扱ってきたかがはっきりとわかったのは、「愛は寛容であり、…」(Iコリント13:4)という個所を読んだときでした。そして、このときを境に、夫の態度と行動に、妻が長らく待ち望んでいた変化が起こりました。
フランソワ・フェネロンは、次のように書いています。「黙って神がおっしゃることに耳を傾けるようにしましょう。神の御声を聴く心づもりができたら、聖霊は、どのようにすれば神を喜ばせることができるのか、教えてくださいます。もし、神の御声を本当に聴きたいと思うなら、物質中心のこの世の思いと人間的な思惑のすべてをいったん脇において、神の御前で沈黙することが、絶対必要です。」
それは、人の耳にはっきりと聞こえる声ではないでしょう。しかし、聖書に書かれている真理が、あなたが置かれている状況や心配ごとに対して、優しく、愛に満ちた力強い声で語りかけるので、あなたには、それが聖霊であることがわかるはずです。
ある晩、孫の病状がとても悪くなったとき、私は起きて祈りました。祈り心を持ち、主の前で沈黙していました。すると突然、妻に対して十分に配慮していなかった点に気づきました。私は、自分のどういう態度が、神のみことばやみこころに沿っていなかったのかがわかりました。何年もの間まったく見えていなかった妻の必要に、初めて目が行きました。私は、神に赦しと助けを求めて祈りました。そして、翌日から妻に対する態度を改めました。その結果、大きな変化が起こりました。黙って神の御前に立つなら、神は語りかけてくださいます。私は、そう確信しています。
確信を持って神に応答する。神のおっしゃることに耳を傾けると、みことばに裏打ちされた行動をするようになります。みことばが与えられることは、ほんの始まりに過ぎません。たとえば、コリント人への手紙第一の15章を読んでいると、復活という大きな勝利と、それに伴う希望のゆえに神をほめたたえるでしょう。しかし、それだけではありません。サタンは敗北したという強い確信が与えられると、重病に侵された人にも語るべき言葉が与えられます。心がかき乱されるような事態に直面しても、それを乗り越えていく勇気が湧いてきます。罪深い態度や習慣をやめる自制心も与えられます。
祈るときには、行動を起こす心構えができていなければなりません。祈りが、聖書に記されている真理に深く根ざしたものとなればなるほど、すなわち神の御旨にかなうものであればあるほど、より大胆な行動を起こすように導かれるでしょう。誰かの家を訪問して、その家族の重荷をともに担うことになるかもしれません。過去に人に傷つけられたり、逆に、人を傷つけたりしたことで、そのままになっている問題があれば、それを解決すべく行動するように促されるかもしれません。予定の大幅な変更もあるかもしれません。見知らぬ土地で、考えたこともないことや、自分にできるなどと思いもしなかったことをするように導かれるかもしれません。どうしてこのようなことが起こるのでしょう。それは、私たちが神に向かって祈っているからです。この神は、じっとしていて何もしない神ではありません。生きて働いておられ、他に比べるものがないほど強い力で私たちの人生に介入され、御旨に沿って生きようとする人を、思いがけないほど劇的に変えてしまわれます。また、劇的な変化は何も起こらず、そのままの状態に留め置かれる人もいるかもしれません。それはそれでよいのです。このお方こそ神だからです。
私たちは、自分の必要と願いを携えて神の御前にひれ伏すとき、自分自身がこの行動の主体だと考えます。しかし、あらゆる祈りは、神への応答だと言えるでしょう。これは、ノルウェーのO・ハレスビーが、その著書『祈り』の中で教えていることです。彼は、イエスがおっしゃった、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。」(黙示録3:20)という聖句を、祈りの扉を開く鍵だと考えています。イエスは、私たちの心の戸をどのようにノックされると思いますか。私たちは、いろいろな条件や環境のもとで様々な経験をしますが、それらの経験は、私たちを祈りへ駆り立ててくれる神のノックです。このように考えると、孫のための私の祈りは、実は、神への応答でした。イエスは、孫が健康を必要としていることを通して、私の人生の戸を叩いておられたのです。
基本に戻るー神の視点に自分を合わせる
あなたもこのような経験をしたことがあるでしょう。いつも混み合っている銀行に電話をかけて、残高照会をしようとしました。「少々お待ちください。」と愛想のよい受け答えの後、音楽が流れ始めました。少しするとその音楽が途切れて、「担当者におつなぎしています。もうしばらくお待ちください。」という録音が聞こえ、それから再び音楽が流れ始めました。ずっと待たされていると、果たしてこの電話は取り次がれているのだろうかとイライラしてきます。かなり経っても何の変化もないので、電話を切ろうかと思います。買い物に出たついでに、銀行に寄って通帳に記帳をした方がよっぽど早いと思うからです。
神が祈りに答えてくださらないので、現状維持を強いられているように思えることが時にはあります。神は、私たちのためにすばらしいことをしてくださっているのかもしれませんが、心の底から願っていることがかなえられません。神がともにおられることはわかっていますが、この願いには答えてくださらないのです。
旧約聖書に出てくるハンナは、神に拒絶されていると感じることがどのようなことかをよく知っていました(Iサムエル1:1~18)。ハンナは、エルカナの妻のひとりでした。もうひとりの妻であるペニンナには子どもがありましたが、ハンナは子どもを授かりませんでした。当時の社会では、これは、神がハンナのことを快く思っておられないしるしだと考えられていました。さらに悪いことに、いけにえをささげるために毎年主の宮に上って行くとき、ペニンナは、ハンナに子どもがないことをあざけりました。ハンナは、熱心で忠実な信仰を持った人でしたが、この不幸は何年も続きました。彼女は、祈って祈って祈り抜きました。しかし、神はハンナの祈りに答えてくださいません。ある年、主の宮に上ったとき、ハンナは激しく泣き、我を忘れて祈っていたので、祭司エリは彼女が酒に酔っていると勘違いして非難したほどです。しかし、これがハンナの話の終わりではありません。神の定められた時に、そしてそれは、まさに絶妙のタイミングでしたが、神はハンナに男の子をお授けになりました。彼女の生んだ子は、サムエルと名づけられ(Iサムエル1:19~20)、後に祭司になりました。彼は、イスラエルの歴史を変えた預言者になったのです。
神に拒絶されたというハンナの気持ちは、神が定められた時に喜びに変わりました。ハンナは言葉を尽くして神をほめたたえましたが、その中で彼女が心の底から求めていたことは、実は、子どもが与えられることではなく、神が自分を受け入れてくださり、自分を認めてくださっていることを知ることでした(Iサムエル2:1~10)。ハンナが感じていた苦々しさは、喜びに変わりました。ハンナの経験が、後のあらゆる時代に生きる人々に対して示していることは、「大切なのは、祈ったことに神がすぐに答えてくださるか否かではない。」ということです。大切なことは、私たちが神の知恵と神の時に謙遜に従っているかどうかです。
ハンナの経験と他の聖書個所に書かれていることとを総合的に見れば、なぜ自分の感情ではなく、神の知恵に従う必要があるのかがわかるようになります。
神の視点を信じる。私たちの物の見方は、針の穴から向こう側を覗いているようなものです。見ようとしているものの全体を見ることはできません。もし全体像が見えたなら、ほしいと思っているものが、自分にとっても愛する人たちにとっても、必ずしもよいものではないとわかるでしょう。祈ったからといって、そのすべてが与えられなかったことを、いままでに何度感謝したことでしょう。物事の全体を見渡すことができるのは天に引き上げられたときだ、と自覚して祈っていたら、私たちは、もっと豊かな人生を送れていたでしょう。そう自覚することによって、「私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」(Iコリント13:12)と言えるようになります。P・T・フォーサイスは、「私たちも、いつかは天国に行くときがきます。そのときになって初めて、かつて神が私たちの祈りに答えてくださらなかったことが、その祈りに対する最も真摯な答えであったことに気づき、それに感謝します。」と書いています。
神の知恵を信じる。神は、私たちが本当は何を必要としているかをご存知です。母子家庭の失業中の母親が、苦しい家計を何とかしようとして、「20万円を与えてください。」と祈ったとしましょう。神は、この祈りに答えてお金を与えてはくださいませんでした。お金ではなく、子どもを育てながら続けられる仕事をお与えになりました。そして、家計のやりくりが上手になるように手ほどきしてくれる友人もお与えになりました。あるとき、彼女は過去を振り返り、神が自分の祈りに答えてくださったことに気づきました。そしてその答えは、神の知恵を反映していました。この話で最も大切なポイントは、彼女が神を信頼するようになっていったことです。
神の時を信じる。家を売りに出しても、その家が実際に売れるまでには思った以上に時間がかかります。また、赤ちゃんは、予定日よりも早く生まれたりするものです。しかし、神は、いつでも最良のタイミングでみこころを行われます。私たちの人生で起こるすべてのことを、オーケストラの指揮者のようにリードしておられます。
神が良き方だと信じる。妻(あるいは夫)が自分をもっと大切にしてくれるように、長い間祈ってきた人がいるかもしれません。しかし、連れ合いの悪口を言うことをやめるように導かれるまでは、このようなことは起こりません。
祈っても答えが得られないことがあるかもしれません。どうしてかと言えば、人を赦そうとしていないか、何かに執着していて、自分を見失っているか、怒りで心が騒いでいるので、私たちのうちにある聖なる部分が堕落しているからです。自分の快楽のために使おうとして「悪い動機」で願っている場合もあるでしょう(ヤコブ4:3)。自分で自分を吟味し、罪を告白し、そして悔い改めて、はじめてあなたの祈りは答えらます。
オズワルド・チェンバースは、祈りの答えを待つことは祈りの一部である、と理解していました。「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」という聖句(ルカ18:1)について、こう書いています。「イエスは弟子たちに忍耐して祈ることをお教えになりました。もし、神の前に正しく生きているのに、祈りの答えが遅れている、という状況にあったとしても誤解してはいけません。神のことを、不親切な友だちだとか、冷淡な父親だとか、あるいは、不公平な裁判官だなどと考えてはいけません。答えられるまで祈り続けなさい。天の父なる神が、いつの日にかすべてのことを説明してくださいます。でも、今はちがいます。どうしてかと言うと、あなたの人格や品性を高めようとしておられるからです。あなたは、『そんなことには関心がない。神にしていただきたいことは、私の願いをかなえてくださることだけだ。』と言うかもしれません。しかし神は、『私があなたのためにしようとしていることは、あなたの知識と理解をはるかに超えている。』とおっしゃるでしょう。」
ダビデの歌うたいであったアサフは、神が人よりもはるかに大きな視野をお持ちであることを知って、幻滅を乗り越えることを学びました。詩篇73篇で、アサフはこう言っています。
まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、ほかの人のようには打たれない。…確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。私は一日中打たれどおしで、朝ごとに責められた。もしも私が、「このままを述べよう。」と言ったなら、確かに私は、あなたの子らの世代の者を裏切ったことだろう。私は、これを知ろうと思い巡らしたが、それは、私の目には、苦役であった。私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った。まことに、あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます。まことに、彼らは、またたくまに滅ぼされ、突然の恐怖で滅ぼし尽くされましょう。目ざめの夢のように、主よ、あなたは、奮い立つとき、彼らの姿をさげすまれましょう。私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。(詩篇73:1~5、13~26)
基本に戻るー神との交わりを楽しみながら答えを待つ
アサフは、「神を信頼する」とは、単なる服従以上のことを意味すると語っています。 確信を持って祈るもうひとつの秘訣は、神との交わりを楽しみながら祈りの答えを待つことです。どんな願いでも、神を知るという特権の上をいくものはありません。神以上に大切なものは、何もありません。
たしかに、抱えている問題があまりに大きくて、圧倒されている場合もあるでしょう。 また、失望したり嘆き悲しんだりして、心が沈んでいるかもしれません。ハンナのように、かなえられない願いが心を占領していて、冷静になれないときもあるでしょう。 しかし、神の恵みに触れて喜びにあふれ、心から笑えることもたくさんあるはずです。
神に関してすでに知っていることが正しいと信じる。「神を待ち望む」ということを学んでいけば、神というお方は自分がすでに知っている側面だけでも、何とすばらしいのだろうと、改めてワクワクしてきます。「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。」という、詩篇の筆者の招きは、自分に対して語られていることがわかります(詩篇100:4)。
主に感謝する。神は、私たちのために多くのことをしてくださいました。もし、あなたの上司がその十分の一でもしてくれたら、言葉を尽くして感謝の気持ちを伝えるでしょう。神にも言葉を惜しまず感謝してください。
私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。(詩篇30:12)
イエスは、父なる神に感謝をささげました(ルカ10:21)。パウロの祈りは、感謝で満ちています(たとえば、 エペソ5:20)。私たちも、主に対して喜びをもって感謝をささげるべきです。
神をほめたたえる。神を神としてほめたたえ、私たちのためにしてくださったことに感謝しましょう。聖書は、主をほめたたえる言葉で満ち溢れています。
ハレルヤ。主のしもべたちよ。ほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。今よりとこしえまで、主の御名はほめられよ。日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。(詩篇113:1~3)
主への賛美が記されている聖書個所としては、この他に、 詩篇146篇1~2節、ヘブル人への手紙13章15節、黙示録4章11節などがあります。祈りの中で神を賛美しましょう。神をほめたたえるとき、神を崇め、賛美しましょう。「主はあなたの賛美」(申命記10:21)です。
神の約束を信じる。との交わりを楽しむもうひとつの方法は、祈りについて神が約束してくださったことを喜ぶことです。パウロは、ピリピ人への手紙で祈りについて書いていますが、そこで3つの約束を列挙しています。
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6~7)
神が与えてくださる平安に関する約束。安を感じたとき、その不安の解毒剤は祈りです。自分ひとりで背負っている重荷を神に引き渡せば、神は、「あなたに平安を与える。」と約束しておられます。多くのクリスチャンが証していることですが、夜中に目が覚め、不安で心が押しつぶされそうだと感じるとき、あなたの重荷を主の御前に差し出すなら、平安が与えられて再び眠れます(詩篇4:8)。ですから、不安や重圧、そして気がかりなことを主にゆだねたなら、主は私たちに平安を与えてくださることを喜びましょう。
神の守りに関する約束。たちが祈るとき、神は私たちの心を守ってくださいます。主が、敵の攻撃から守ってくださるので、主のもとへいつでも避難していけます(詩篇31:1~3)。ですから、このお方がともにいてくださることを喜びましょう。
神が私とともにおられるという約束。パウロは、神の臨在についてこのように記しています。「平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」(ピリピ4:9)人生の嵐が吹きすさぶ谷間をひとり歩くとき、私たちは孤独を最も強く感じます。しかし、そのような中でも祈るなら、神がともにいてくださることを思い出します。どこにいようとも、神の約束が私たちとともにあることを喜びましょう。
歯医者さんで
息子の付き添いで歯医者さんに行き、父なる神の心を学ぶとは予想外でした。永久歯が乳歯の下から生えてきたのです。抜く以外に方法はありません。
知恵の源
ある男性が女性を訴えて自分の犬を盗ったと主張しました。彼女は、それが彼の犬であるはずがないと言って、犬を買った場所を語りました。しかし、裁判官が法廷に犬を放すと飼い主は明らかでした。犬はすぐに尻尾を振って、男性に向かって走り出したのです。
なおも王
この数十年間で、クリスチャンにとって最悪の日と報道されたのは、日曜礼拝に集う人が攻撃された2017年4月の事件です。礼拝の場で流血事件とは言語道断で、まったく理解できません。しかし、この種の痛みをよく知る人の言葉に慰められます。
あなたの町を見よ
デトロイト市の都市開発グループが「私たちの視点で町を見よう」というキャンペーンをして将来の構想に着手しました。ところが、市民が違和感を主張してプロジェクトは突然中止されました。市の住民や労働者の大半は、アフリカ系アメリカ人です。それなのに、自分たちの視点で町を見ようと促す垂れ幕や広告板には白人ばかりが描かれていました。
狐を捕らえる
海辺に住む友人と電話で話していると、カモメの鳴く声がバックに聞こえました。私が嬉しそうにそう言うと、彼女は「イヤな生き物」と答えました。海辺の住人にとってカモメは厄介な存在です。それと同じように、ロンドンの住人はキツネを疎ましく思います。私にとって、キツネは、そこらをうろついて臭い糞を残していく動物です。
旧約聖書の雅歌に「狐」が登場します。雅歌は夫婦の愛を表現していますが、それは神と神の民の愛だと解説する学者もいます。花嫁は「狐や小狐」を捕まえてくれるようにと夫に頼みます(2:15)ぶどう畑の実を求めて柔らかい木を引っかき回すかもしれないので、そのように頼んだのです。花嫁は結婚生活を楽しみにしていて、害獣に邪魔されたくありません。
では「狐」は、どのように神と私たちの関係を邪魔するのでしょう。私の場合、色々と引き受けすぎてしまうと、圧倒されて不機嫌になります。また人のいさかいを目にすると、失望したり怒ったりしがちです。私は図らずも「狐」を招き入れてしまったり、忍び込ませてしまったりしたとき、その影響を最小限にしてくださるように主に願います。すると、神の優しい臨在と導きを感じ、神に対する信頼と愛が増していきます。
あなたは自分を神から引き離そうとするものに対して、どのように神の助けを求めていますか。
共感疲労
第二次世界大戦中、家族と隠れ家で暮らした日々を綴った日記で有名なアンネ・フランクについて、ナチスの強制収容所生活を共にした人たちは「アンネの共感の涙は決して枯れることなく…、周りの人にとって祝福の存在だった」と語りました。学者のケネス・ベイリーはここから、アンネは「共感疲労」していなかったと結論づけています。