名誉を超えた行為
アイオワ大学バスケットボール部のスター選手、ジョーダン・ボハノンは、チームの記録を塗り替えるという所で、わざとフリースローを外しました。なぜなら、1993年、連続34本のフリースローを達成した直後、自動車事故で亡くなった大先輩のクリス・ストリートの記録を大切にしたかったからです。ボハノンは、ストリートの名誉を選択しました。自分が勝つこと以上に大切なものがあると、強く感じていたのでしょう。
今も生きておられる
「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。—ルカ24:34
初春の花が咲いている庭で、5歳になる息子が、水仙が咲いている一角に座り込んでいました。彼は何ヶ月も前に散った植物の残骸を見つけて、「ママ。僕は死んだものを見るとイースターを思い出すよ。だってイエスさまも十字架で死んだんでしょ」と言いました。私は、「ママはね、そこの水仙のように元気に生きているものを見ると、イエスさまの復活を思い出すわ」と返答しました。
イエスが墓からよみがえったことを確信させる話のひとつが、ルカの福音書に収められています。イエスが処刑されて3日後、ふたりの人がエマオに向かっていました。イエスは、この人たちと一緒に旅をされ、食事もされました。それどころか、旧約聖書の預言を教えたりもされたのです(ルカ24:15-27)。ふたりの旅人は、イエスが死から復活されたことを悟ります。そしてエルサレムに戻り、「ほんとうに主はよみがえった」と弟子たちに告げました(34節)。
もしキリストがよみがえらなかったのなら、私たちの信仰はむなしいものです。私たちは今もなお、自分の罪の中にいるのです(Ⅰコリ15:17)。しかし、聖書は、私たちが義と認められるために、イエスはよみがえられたと語っています(ロマ4:25)。
今日、私たちは神と正しい関係の中にいます。それは、イエスが生きておられるからです。Jennifer Benson Schuldt
誰も架かっていない十字架と空っぽの墓によって、完全な救いが完成した。
前の文章:死に打ち勝つ
「信仰の物語」トップページに戻る
逃げない
企業で働いたおかげで、多くの有能で良識ある人たちと出会いましたが、例外もあります。遠地にいる上司でしたが、彼はチームが成果を出しても厳しく批判し、毎週の電話で無理な要求をします。私は毎度の圧迫に脅かされ、逃げたいと思ったこともありました。
死に打ち勝つ
墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。—ヨハネ5:28-29
私は先日、「アナスタシス」という題名の古いフレスコ画に深く感動しました。 アナスタシスとは「よみがえり」という意味で、死を打ち負かしたイエスの大勝利を描いています。墓から出てきたばかりのイエスが、アダムとエバを棺桶から引き出して永遠のいのちに導いておられます。彼らの堕罪の結果としてもたらされた肉体とたましいの死が、キリストのよみがえりによって反転されたことを実に見事に表しています。この絵の素晴らしさは、何と言ってもそこです。
主イエスは十字架の死を目前に、やがて信じる者たちを新たな栄光のいのちへと呼び寄せてくださる日について、「墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます」と預言なさいました(ヨハ5:28)。
キリストが死に打ち勝たれたので、墓はもはや終着地ではなくなりました。もちろん、愛する人と死に別れることを悼み悲しむのは自然なことです。しかし、信仰に生きる人は、死の向こうに何の望みもない人たちのように悲嘆に暮れることはありません(Ⅰテサ4:13)。イエスが復活されたという事実は、すべてのクリスチャンがやがて栄光のからだをいただいて、墓からよみがえるという証拠です(Ⅰコリ15:42-44)。そして、「私たちは、いつまでも主とともにいることになります」(Ⅰテサ4:17)。
私たちは心から、主イエスに感謝と礼拝をささげます。Bill Crowder
キリストが生きておられるから、私たちもいのちを受けて生きる。
前の文章:オリーブ搾りの石
次の文章:今も生きておられる
「信仰の物語」トップページに戻る
比べられない
若い大人が高校生になりすまして彼らの生活を調査するテレビ番組で、高校生は自分の価値を主にソーシャルメディアで判断すると分かりました。観察の結果「自分の価値はSNSに投稿した写真に付けられた『いいね』の数だった」と言う人もいます。人気が欲しくてネット上で極端な行動を取る人もいます。
オリーブ搾りの石
ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」—マルコ14:32
ガリラヤ湖畔のカペナウムの村を訪れると、古いオリーブ搾りの石を見学することができます。玄武岩で掘られたこの石は、二つの部分、土台の臼とぐるぐる回す輪から成り立っています。臼は大きくて丸く、内側が削り取られて桶のようにくぼんでいます。このくぼみにオリーブの実を入れ、その上に重い石の輪を転がして、油を搾ります。
イエスは死の前夜、オリーブ山に上り、エルサレムの町を眺められました。そして、ゲツセマネと呼ばれる園で、これから起こることを知った上で、天の父に祈られました。
「ゲツセマネ」とは、「オリーブを搾る所」という意味です。キリストは「苦しみもだえて…切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」と聖書は語ります(ルカ22:44)。この園の名は、イエスが私たちのために、いかに苦しんで祈られたかを象徴します。
神のひとり子は苦しみ死なれて「世の罪」を取り除き(ヨハ1:29)、壊れていた神と人との関係を修復してくださいました。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった…彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」と語られているとおりです(イザ53:4-5)。
私たちは心から、主イエスに感謝と礼拝をささげます。Bill Crowder
父なる神さま、神のひとり子が私のために忍ばれたことを理解できるように助けてください。私の罪のために、そして、私を助けるために御子を砕かれた神の愛の深さを知ることができますように。
永遠のいのちは受け取る準備の出来ている人に無料で提供される贈り物だ。
次の文章:死に打ち勝つ
「信仰の物語」トップページに戻る