舌足らずな祈り
弟は先天性の舌小帯短縮症だったので、赤ん坊の頃に手術をしました。さもなければ、食べたり話したりすることが困難になるからです。「舌足らず」という言い回しがあります。言葉で十分に表現できないことを意味します。
安全な場所
ダグ・マーキーの人生は、より糸が少しずつ切れていくようでした。「長い闘病の末、母ががんで亡くなりました。長年の恋人と別れ、貯金も底をつき、仕事の将来性も見えません。霊的にも精神的にもどん底だった」と書いています。牧師であり彫刻家でもあるマーキーのこの状況と小さな屋根裏部屋という住環境が、彼の「隠れ場」という作品を生み出しました。釘の痕が残るキリストの力強い両手のひらが椀のように合わさって、そこが安全な場所だと物語ります。
揺るがない信仰
ケヴィンは亡くなった父の遺品を引き取りに介護施設に行きましたが、手渡されたのは2つの小さな箱だけでした。彼はその日、人は大して持っていなくても幸せでいられると実感した、と言います。父のラリーは最期まで、屈託がなく、人に対して笑顔と思いやりを絶やさない男性だったからです。彼の幸せは、箱には入らない財産、つまり、救い主イエスを信じる揺るぎない信仰でした。
神によって力づけられた
作家志望でホテルの皿洗いをしていたラングストン・ヒューズは、1925年、憧れの詩人バチェル・リンゼイが宿泊していると知り、自作の詩を書いた紙を彼の部屋の扉の下からそっと差し入れました。リンゼイは、その詩を絶賛し、朗読会で披露しました。ヒューズはリンゼイに励まされて奨学金を得て大学に入り、成功の第一歩を踏み出しました。
まず祈る
配管業者のジャックは、以前工事で私たちの教会に出入りしました。以来7年間、ジャックを導いて救ってください、と私は毎日祈っていました。彼は言葉使いは乱暴ですが、自分のために祈ってもらっていると知ってからは、彼の友だちのためにも祈ってほしいと時折頼んできました。
ある土曜日の朝、神の前に静まっていると、キリストと出会うべき人がたくさんいることを改めて思い、祈りました。「どうか主よ、たった一人でもお救いください!」その日の午後、携帯電話が鳴りました。ジャックからでした。「オレ、膵臓がんだってよ。まだ死にたくねぇ」 。翌週の水曜日に会う約束をし、彼の承諾を得て、他の人にも祈ってもらうことになりました。教会の祈祷会では、ジャックの癒やしと救いのためにみんなで祈りました。
水曜日、いろいろ話をした後、ジャックはイエスを救い主として受け入れ、次の日曜日には洗礼を受けました。
祈りは、神の力こそが物事を動かすと信じる行為です。誰かに力ずくで神を信じさせることはできないと謙虚に認めるとき、新たな扉が開き、人にはできないことを神が成し遂げてくださいます。誰かが御霊によって神へと導かれるよう祈るのは、神の御力を求めることです。神は、不可能に思えることも可能にされるお方です。
イエスを通して示された神のご親切のゆえに、私たちは「大胆に恵みの御座に近づ」くことができます(ヘブル4:16)。神のいない場所で永遠を過ごすことにならないように、失われたたましいのために、心を砕いて祈りましょう。誰かを思いやって祈るとき、救い主は「私たちのために、とりなしていてくださる」(ローマ8:34)のです。
どうすればイエスを信じて生きる人生の素晴らしさを分かりやすく伝えられるでしょう。今月は、身近な人たちにキリストの救いという良い知らせを届ける方法を考えてみました。このトピックは、3 月1、8、15、22 日のエッセーでも取り上げています。
愛のうちに生きる
愛する、愛されるとは一体何でしょう。私たちは必要以上に複雑に考え、自分も相手もどう感じているかを読みすぎて、愛が感情主導ではないことを忘れがちです。愛するとは、この世での生き方、存在の仕方です。人は意志の力や心がけによって愛し方を学びません。愛し愛される経験を通して愛を知り、愛のある生き方を学びます。
ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』の中に、私の好きなシーンがあります。主人公テヴィエは、何十年も前に見合い結婚した妻ゴールデに、「愛しているかい?」と突然尋ねます。「 何ですって?」と驚くゴールデ。そこから長いやりとりが始まり、最終的には、25 年間も生活に子育てに二人三脚で頑張ってきて、それが愛でないはずがない、という結論に至ります。そして、ずっと愛されていたのだと気付いて二人で幸せな気分に浸る、というシーンです。
そのシーンは、愛されていることに気付く喜びと、共に生きる中で愛が育まれるという理解を美しく描いています。誰かに寄り添い、その人のために生きるなら、愛しているという自覚はなくても、確かにそこには愛があります。
それは、パウロが「愛のうちに」と呼ぶ献身的な愛です(エペソ5:2、Ⅰコリント14:1)。愛のうちに生きる道は、私たちがずっと愛されてきたことに気付くところから始まります。キリストの犠牲が、その道を永遠に確立し、そこからすべてが変わりました。
使徒パウロは、クリスチャンの共生についてキリスト者のコミュニティーに教えました。その際、まずキリストにある神のあわれみと愛を思い起こさせることから始めました。あなたたちはずっと愛されてきた、と彼らに改めて伝えるのです(エペソ5:1-2)。私たちは、愛することも愛されることも簡単に忘れてしまう子どものようです。ですから聖書は、キリストという贈り物が愛の神について示したことを繰り返し思い出すようにと促します。また、クリスチャン同士が一緒にそうすることを勧めます。
結婚式でよく読まれるコリント人への手紙第一13 章には、麗しい愛の描写があります。ここで忘れないでほしいのは、この手紙がもともと信者のコミュニティーに向けられたものだったことです。ここで呼びかけるような愛を育むべき対象は、配偶者という限定された相手ではなく、共に生きる信者の交わり全体でした。皆で一つのからだとなるようにされていたからです(12:13)。
愛は贈り物であると同時に生き方でもあります。神に愛されているという経験を持つ者同士のコミュニティーが、旅の良き道連れとなって共に歩むための贈り物であり、ライフスタイルです。そこを土台にするなら、妬み、怒り、自分勝手、保身といった負の動機に支配されなくなるでしょう(エペソ4:31)。そのような生き方は、自分で自分を守らなくてはならないと考えていた時の自衛手段でした。愛されていることを知る前の生き方です。
私たちが「愛に根ざし、愛に基礎を置いている」とき、心も体もこの「人知をはるかに越えたキリストの愛」で満たされているとき(3:17–19)、なぜ愛こそが「さらにまさる道」であり(Ⅰコリント12:31)、それ以上に大切なものはない(13:3)のかをようやく理解するでしょう。
そうすれば、救い主が開いてくださった愛のうちに生きる道という恵みと自由を喜んで選ぶことができます。
どうすれば心から人を愛せるのでしょう。今月は、愛に満ちたイエスのご性質を体験することと、人との関わりの中でその愛を示すことに注目しました。このトピックは、2 月1、8、15、22 日でも取り上げています。
イエスが提供する平和
平和は、今では稀有なものとなりました。しかし、そんな混沌とした世界の真っただ中で、神は人間の理解をはるかに超えた平和を提供します。この平和の希望こそ、聖書の物語の核心です。
エデンの園でアダムとエバが神に逆らって以来、全人類は生まれつき創造主との関係回復を必要としています。しかし、神はすでにこの問題に対処されました。全ての人に救いを提供するお方を送ると約束されたのです。このお方は、イエス、「世の罪を取り除く神の小羊」です(ヨハネ1:29)。イエスは、私たちの罪のためにご自身を差し出されました。信仰によってこれを受け入れ、信頼するとき、救いと、神との平和を体験します。とは言え、日々の出来事がこの平和を脅かします。怒り、嫉妬、人間関係や仕事のストレス、健康問題によって、平和はどこかに行ってしまいます。そんな私たちに、神との平和に加えて与えられているのが、神の平和です。
イエスは言われました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」(14:27)。使徒パウロも次のように励ましました。「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい」(コロサイ3:15)
聖書の壮大な構想は、イエスが死を征服し、私たちに永遠のいのちを約束された、というものです。この真実があるので、不確実な世界に振り回されず、むしろ、神の平和に心を支配していただけます。
デジタルパブリッシャーおよびオンラインラーニング・ディレクター
聖書に記された神の霊感による知恵をどう受け止めますか。一貫した構想を踏まえて聖書を読むとはどういう意味でしょう。1月は、人類と被造物を回復する神の働きの展開を、聖書がどのように示しているかに注目しました。このトピックは、1 月1、8、15、22 日でも取り上げています。
キリスト者のコミュニティー
コミュニティーと聞いて、何をイメージしますか。ヨハネの福音書17章でイエスは、信者の共同体が団結、喜び、真理における成長、そして使命に対する情熱で知られるようになることを祈られました。
一致:「それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです」(11節)。イエスは、一致が教会の決定的なしるしとなるようにと父に祈られました。一致とは画一化ではありません。私たち皆が、それぞれの個性を持ち寄ります。その多様性の中で愛をもって尊重し合えることを、世間に示すことができます。
喜び:「彼らの中でわたしの喜びが全うされるために」(13 節)。コミュニティーの大きなメリットは、励ましです。私たちを喜びで満たしてくれるのは創造主だけだという真実を、信仰の友は思い出させてくれます。
真理における成長:「悪い者から守ってくださるようにお願いします」(15 節)。クリスチャンのコミュニティーは、真理から迷い出たときにしっかり向き合って正し合えます。これは、世の中にない神から授かった能力です。福音に再び目を向けるよう支え合うのは、私たちコミュニティーの務めです。
使命に対する情熱:「わたしも彼らを世に遣わしました」(18 節)。クリスチャンが俗世間から逃れて暮らすことは、想定されていませんでした。むしろ、コミュニティーの中で暮らすように、イエスは私たちを召されます(マタイ28:18–20)。信者同士のつながりが、未信者との関わりに重要性と情熱を与えます。集まって祈り合い、教会から出かけます。それは、人に仕え、愛し、イエスとの関係に他者を招くためです。
ネットで世界中とつながっていても、ひとりぼっちだと感じやすいのが現代社会です。12 月は、教会への参加に注目しました。信者が互いの生活に関わることは、心身の健康促進につながります。このトピックは、12 月1、8、15、22 日でも取り上げています。
礼拝がもたらす恵み
ウェストミンスター小教理問答は、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」と述べます。神の栄光をあらわすとは神を礼拝することです。永遠に神を喜ぶとは、礼拝がもたらす報いです。そこには、具体的な恵みがあります。
赦し:真の礼拝者は、神が聖なるお方であると知り、神の赦しを受け入れます(ローマ5:1、 Ⅰヨハネ1:9)。礼拝をとおして人はきよめられます。
導き:神を敬う者には知恵が与えられ、日々神の導きを受けます(詩篇25:4–12、箴言1:7、 3:5–6)。
備え:イエスは、私たちが神を第一に求めるならば、神が物質面の必要を満たしてくださると言われました(マタイ6:33、詩篇23、 37:3–6 も参照)。
愛:真の礼拝者は、神の愛を体験します(詩篇63:3、ヨハネ14:21、23、ローマ5:5)。
力:神にすべての栄光を帰す人には、神の望まれることをなす力が与えられます(Ⅱコリント12:7–10、エペソ3:14–21、ピリピ4:13)。
守り:主を認める人は、主によって常に見守られ、刻々と変化する状況でも守られます(詩篇5:11–12、Ⅰペテロ1:5)。
栄光:真の礼拝者はいつの日か栄光を受けます。新しい天と新しい地を受け継ぎ、信者と御使いによる完成された終わりのない礼拝に加わります(Ⅱペテロ3:13、 Ⅰヨハネ3:2、黙示録19:1–10)。
礼拝と聞くと、教会に集まったり賛美歌を歌ったりすることをまず思い浮かべる人は少なくないでしょう。しかし、神を礼拝するとは、それらの行為にとどまりません。11 月は、11 月1、8、15、22 日のエッセーでもこのトピックを取り上げています。今月、まことによって神を礼拝するとはどういうことか、理解がより深まりますように。