導く人
自分に自信が持てなかった頃、リッチ牧師は私の潜在能力と可能性を信じてくれました。また、謙遜と愛で仕える姿を示して、指導者の模範になってくれました。その影響で、私は今日、神に仕え、助言者、指導者になっています。
来て、受けなさい
裏のぶどう畑の柵越しに外をのぞくと、隣接する公園の周りを人々が走ったり、歩いたりしているのが見えました。若くて元気だったときは、自分もああだったと思うと、急に気分が塞ぎました。後で聖書を読んでいると「ああ。渇いている者はみな、…出て来い」(イザ55:1)というみことばが目に留まり、私は渇きというものは人生につきものなのだと改めて思いました。どんな良いことやものでさえ、人を完全に満足させることはできません。たとえ、私がヒマラヤのシェルパのような強健な脚を持っていたとしても、別のことが面白くないでしょう。
待つとは
ある女性が交通違反で捕まりました。園児を降ろすために停車中のスクールバスを待ちきれず、歩道に乗り上げて通過したのです。
あきらめずに祈る
ケビンは涙を拭いながら「おふたりを励ませればと思って」と、一枚の紙切れを私の妻に見せました。私たち夫婦は、娘がイエスを信じる信仰に戻ってくるように祈り続けてきました。ケビンは、母の死後、彼女の聖書の中にその紙を見つけたそうです。「息子ケビンのために」という文字の下には、彼の救いを祈る祈りの言葉が記されていました。
聖書の処方箋
グレッグとエリザベスの家では、学校に行っている4人の子どもと一緒に「ジョークの夕べ」を定期的に持っています。夕食の時、各々がどこかで読んだり聞いたり(自分で作ったり!)したジョークを披露します。これは一家が育んできた伝統で、食卓を囲んで楽しく過ごした思い出になります。笑いは、苦しい時でも気持ちを明るくし、子どもたちの健康にも良いようです。
聖人と罪人
エジプトの聖マリア(344-421年)は、バプテスマのヨハネのように荒野で修行しましたが、以前は淫らな快楽を求め男性を誘惑していました。絶頂期には、巡礼者を誘惑しようとエルサレムに向かいました。ところが、エルサレムで自分の大罪を神に示され、深く悔い改めて、荒野で孤独な修道生活を続けたのです。マリアの劇的な変化は、神の恩寵と十字架の回復の力がいかに大きいかを証しています。
人生の試練を理解する
友人の父が、がんと診断されました。彼は、抗がん剤治療の最中、キリストを信じる決心をし、病気の進行が止まりました。ところが18か月後、さらに悪い状態で再発。彼と妻は、この事態に戸惑いましたが、神を信頼する信仰は揺るぎませんでした。神が支えてくださったことを覚えていたからです。
美を楽しむ
市民病院の長い廊下を歩いていて、目が釘付けになりました。深みのあるパステルで描かれたアメリカ原住民ナバホ族の絵は、私を魅了し、前を行く夫に「ねえ!」と声を掛けました。そして、他の絵には目もくれず、その絵を見つめ「美しいわ」とつぶやきました。
神が見るもの
居間の窓から野原が見えます。朝、鷹やフクロウが、羽を休めているのを見かけます。ある時は、高い枝にハゲタカがとまっていました。「朝ごはん」を物色中にも見えましたが、その姿はまさに「帝王」でした。