Category  |  キリストのように生きる

意地悪への対応

ネットの掲示板などで、本題とは無関係に他の投稿者を中傷したり、「ネタ」と呼ばれる嘘を真に受けた人を嘲笑したりする人がいます。これらはデジタル社会の問題ですが、悪意ある投稿が無視されれば本題から逸脱するのを防ぐ助けになるでしょう。

言葉の調教師

ベリル・マーカムは著書「夜とともに西へ」の中で、気の荒い種馬を調教した時のことを書いています。彼女は有能な競走馬の調教師でしたが、どんな手を使っても、その馬を完全に制御できませんでした。その強情さに勝ったのは、たった一度だったそうです。

逆向きに歩く

家族の農園で1932年に撮影された6歳のフラナリー・オコナーのニュース映像を見ました。フラナリーは後に、アメリカの人気作家となりましたが、後ろ向きに歩くことを鶏に教えている幼少期の映像が残っていたのです。これは彼女の生き方を暗示します。オコナーは自身の文学的感性と霊的信条のために、39年間の生涯を逆向きに歩みました。反体制的に考え、執筆しました。彼女の聖書的テーマが既存の宗教観の真逆になることに、出版社も読者も困惑させられました。

姿を変えたイエスが

息子のジェフは最近、ホームレス体験に参加しました。2泊3日、氷点下の路上で暮らし、夜も屋外で眠りました。お金も食べ物もなく、見知らぬ人の情けにすがって最低限の必要を満たしました。ある日の食べ物はサンドイッチだけでした。消費期限切れのパンをめぐんでくれとファーストフード店に頼んでいたのを聞いていた人が買ってくれたのです。

言行一致

牧師であり作家でもあるユージン・ピーターソンは、スイスの著名な精神科医ポール・トゥルニエの講演を聞きました。彼はトゥルニエの著書を何冊も読み、彼の癒しに対するアプローチに感銘を受けていました。そして、この講演に大いに感動しました。トゥルニエは、自分が語っ たように生き、生きたままを語っていると感じたからです。ピーターソンは、これを最もよく表す言葉は「コングルーエンス」だと言いました。

傷つける言葉

男の子たちが「やーい、やせっぽち!」、「よ!枝ちゃん」と馬鹿にしました。私は「棒や石なら痛いけど、言葉はちっとも痛くない」と、昔のことわざで言い返すこともできたでしょう。けれど、それは事実ではありません。意地の悪い言葉は、時には棒や石以上に人を傷つけます。

状況認識

クリスマス休暇に家族でローマに行きましたが、これほどの混雑に身を置くのは初体験でした。人混みをかき分けてバチカンやコロッ セオを見学したとき、私は「状況認識」を怠らないようにと子どもたちに度々注意しました。つまり、自分の位置と周りの人や状況に気を配るように言ったのです。このご時世、世の中が安全とは言えません。その上、 イヤホンをつけて音楽などを聞いているのですから、周りの状況はますます分かりづらくなります。

明るい光

私たちの教会のグループは2015年の夏、ナイロビのスラムのひとつ、マタレを訪れてショックを受けました。学校は、土の床、錆びた金属の塀、木の腰掛けという状況でしたが、その貧しい環境の中に、際立った人物がいました。名前はブリリアント。聡明、輝き、という意味のその名は、彼女にぴったりでした。ブリリアントは小学校の教師で、その使命に相応しい決意と喜びが見えました。カラフルな服に身を包んで、子どもたちを教え、励ます姿は、喜びに満ちて素晴らしいものでした。

神の物語に生きる

ヘミングウェイは、英単語6つで人の心を動かす物語が書けるかと質問され、「未使用のベビー靴、売ります」と答えました。この迫力の理由は細部を読者に想像させるからです。元気な赤ん坊のいらない靴でしょうか。それとも、神の深い愛と慰めを必要とする悲劇的な死の結果、靴が不要になったのでしょうか。