満載喫水線
無謀な過積載が原因で船が沈没し、乗組員が亡くなるという海難事故が19世紀にはよくありました。この無責任な慣例を正すため、英国の政治家サミュエル・プリムソルは1875年に、すべての船の船体に線を引いて、その線によって積載貨物の限界を示すという法律を作りました。この線(満載喫水線)はプリムソルマークと呼ばれて、今日の船の船体にも引かれています。
昨日、今日、明日
仕事場にある写真や記念品は、すべて過去のものだとふと気づき、処分しようかと思いました。そのとき、これらの品には懐かしい思い出という以外、何の意味も無いのだろうかと考えました。この写真や記念品が今日どのような意味を持つのか、また明日に対してどんな意味を持つのか、それを見つけなければ、ただ思い出に浸るだけになってしまいます。
神の民がヨルダン川を渡り、約束の地に入るとき、神は指導者となったヨシュアに12人を選ばせ、各々が川の真ん中で石を取って、自分の宿営地に運ぶようにと命じられました。そして、この石を記念として据えなさいと言われました(ヨシ4:1-5)。それは、子孫たちが後に「これらの石にはどういう意味があるのですか」と尋ねるだろうからです。その時彼らは、神は真実なお方で、自分たちを守り、ヨルダン川の水をせき止められて、安全に渡らせてくださったと教えることができます(6-7節)。
クリスチャンにとって、神が助けてくださったことを証する、目に見えたり、手で触ったりできる何かを持っているのはよいことです。それによって、私たちは神が今日も誠実なお方であることを思い出すことができ、その確信とともに明日に向かって、神に従順に歩んで行けます。私たちの「石」は、私たちに神を畏れることを教えてくれます。それと同時に、他の人たちにも、神の御手は非常に強大だということを知らせます(24節)。
神の御業についての思い出は、私たちの今日や明日を築く礎になります。
価値あるもの
今までの人生で集めたものや、捨てずにとっておいたものがたくさんあります。その中には、以前は大切だったけれど、今では当時の輝きが失せた物も多くあります。それなのに私は性懲りもなく新しいものを見つけ、自分のコレクションを増やしていくことにワクワクしてしまいます。
私たちは、これも大事、あれも大事と色々なものをため込んでしまいます。ところが、本当に価値のあるものはごくわずかです。事実、人生で最も価値あるものは、物ではないでしょう。私は年とともに、そのことが分かってきました。人生で何よりの宝は、私を愛し、私の人生に関わってくれた人たちです。「あの人がいなかったら大変だ」と心の中で言える人たちこそが、何よりも大切な存在なのです。
ペテロはイエスが「選ばれた石、尊い礎石」だと語りましたが(Ⅰペテ2:6)、そのことばに、私たちの心も共鳴すべきです。イエスこそが本当に価値あるものです。何物にも、何人にもまして大切なお方なのです。もしイエスがいつも一緒にいてくださらなかったなら、私たちは大変なことになっていたでしょう。イエスの賢明なアドバイス、絶対的な導き、慈愛のこもった忍耐、変革を促す叱責がなかったなら、私たちはどうなっているでしょう。イエスなしで、どうやって生きていけるでしょうか。そんなことは、想像すらできません。
見捨てられない
ある日、カリッサ・スミスは地元の図書館にいました。可愛い声を出し始めた4ヶ月の娘と一緒です。不意に、年配の男性が「赤ん坊を黙らせろ、さもないとわしが黙らせる」とすごんできました。スミスは毅然(きぜん)と答えました。「機嫌のよい赤ちゃんに腹を立てるとは、ご事情があるのかもしれませんね。けれども、私は娘を無理に黙らせようとは思いませんし、あなたにもそうはさせません。」
見捨てられた?
新約聖書の中で最も多く引用されている詩篇は何でしょう。なじみ深い23篇だと思うかもしれませんが、実は詩篇22篇です。その冒頭には、ダビデの悲痛な心の叫びがあります。「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」これは、イエスが十字架の上で口にされた言葉でもあります(マタ27:46、マコ15:34)。
信頼できる約束
◆ 詩篇100-102
◆ Ⅰコリント1
世界規模の金融危機の後、アメリカ政府は銀行による手数料や利子の不当請求から国民を守るために、より厳しい法律を施行しました。これに従うために銀行は、一部の方針を変更したということで、私の取引銀行は、それを通知する文書を送ってきました。しかし、疑念は解消されるどころか増しました。そこには「可能性があります」とか「当行の自由裁量権によって」という文言が並び、何も信頼できないということがはっきりしたからです。