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賢い老フクロウ

誰が書いたのか分かりませんが、ことば数に気をつけることの賢明さを説いた昔の詩があります。「賢い老フクロウが、樫の木にとまって、世の中を見ていた。見れば見るほど口数が減り、口数が減れば減るほど、たくさん耳を傾けた。どうしてみんな、この賢い老鳥みたいになれないの?」

黙るペン

アメリカの第33代大統領のハリー・トルーマンには、ある規則がありました。怒って書いた手紙は、24時間机の上に置いてからでなければ郵送してはならない、というものです。この冷却期間が終わってもなお同じ気持ちなら、その手紙は郵送されました。人生の最後を迎えたとき、机の大きな引き出しは、送られなかった手紙でいっぱいでした。

耳を傾ける

英語のことわざは、「神がふたつの耳とひとつの口を与えたのには訳がある」と語ります。耳を傾けるという姿勢は、生きていく上で欠かせません。カウンセラーは、相手の言うことをよく聴くようにと言い、牧師は、神のみことばに耳を傾けるようにと語ります。けれども、「自分の声に耳を傾けなさい」と言う人はまれです。

助け癒やすことば

ペンシルベニア州のゲティスバーグで1863年11月19日、国立戦没者墓地の奉献式が行われ、ふたりの有名人が演説しました。基調演説はエドワード・エヴァレット。元国会議員、州知事であり、ハーバード大学の学長も務めた人で、当時の最も優秀な演説家のひとりでした。彼は2時間にもわたる、公式の演説を行いました。それにつづいてリンカーン大統領が、2分間の演説をしました。

私たちが話すこと

アメリカには、「偉大な心の持ち主は考えを語り合い、標準的な心の持ち主はイベントや出来事を語り合い、小さい心の持ち主は人について語り合う」という格言があります。もちろん、尊敬しているのでその人のことを話す、ということはあります。しかし、この格言は私たちのイヤな面を指しています。既存のメディアやソーシャルメディアは絶え間なく情報を流していますが、その中には妥当なラインを超えた他人の個人情報が含まれていて、いや応なくそれを目にすることさえあります。

私の唇の所有者は誰か

賛辞とお世辞の違いは、その動機であることが多いようです。賛辞は、相手の人の才能や行為を本心から評価し、その気持ちを伝えようとするものです。他方、お世辞の目的は、相手に良く思われることで、自分が何らかの得をすることを狙うものです。賛辞は相手を力づけようとするのに対して、お世辞は相手を操ろうとするものです。

詩篇12篇で、ダビデは当時の世の中を嘆きました。誠実な信仰深い人々が少なくなって、「へつらいのくちびると、二心」(2節)の人ばかりになっていたのです。彼らは「われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか」と豪語していました(4節)。

「私の唇の所有者は誰か」。心にもないお世辞を言ってうまく立ち回ろうと思うことがあったら、このように自問してみてください。唇が自分のものならば、好き勝手なことを言えますが、その所有者が神ならば、私の言葉は神のみことばを映し出すはずです。みことばは、土の炉で七回もためされて純化された銀のように、混じりけのない言葉だとダビデは語りました(6節)。

私たちの唇の所有者は誰かを示す良い方法は、次のようなダビデの祈りで毎日を始めることかもしれません。「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」(詩篇19:14)

ギリシヤ火薬

ギリシヤ火薬はビザンチン帝国が戦場で用いた、液状の化学兵器です。あるインターネットサイトの情報によると、この兵器は672年頃に開発され、水の上で燃えるため海上戦で絶大な威力を発揮し、敵に壊滅的な被害を与えました。では、このギリシヤ火薬とはいったい何だったのでしょう。その成分は今でも謎です。あまりに有効で価値ある兵器だったので、製造法は門外不出のトップシークレットでした。そのために謎が多く、歴史の闇に葬られていったのです。今日でも、この古代の破壊兵器を再現しようと研究が続けられていますが、未だ成功には至っていません。

一方で、キリストを信じる人同士の人間関係に壊滅的な打撃を与えるものは何かといえば、その答えは明らかです。使徒ヤコブは、クリスチャンの人間関係を壊すのは一種の「火」であると述べていますが、これはギリシヤ火薬とまったく異なった「火」です。ヤコブは、「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し」と語ります(ヤコ3:6)。彼の強い主張は、私たちの軽率な発言が、いかに大きな害を周囲に及ぼすかを再確認させてくれます。

自分の口で「ギリシヤ火薬」を作って、家族や教会の人間関係を損なわないようにしましょう。むしろ、聖霊の支配に委ねた発言をして、主の栄光を表しましょう。

健全な言葉

しばらく前、アメリカン・ミュージック・アワード(アメリカ4大音楽賞のひとつ)の授賞式のさなか、あるエミー賞女優が勇敢にも立ち上がり、退場したことがありました。その理由は、式の司会者、賞の贈呈者、またミュージシャンたちが、次から次へと下品でわいせつなコメントや冗談を連発するので、非常に不愉快で失望したためです。その女優は、自尊心と尊厳がわずかでもある人にとって、あのような式に列席させられるのは侮辱以外の何ものでもないと語りました。

下品で不健全な言葉は、使徒パウロの時代においても問題でした。パウロはエペソのクリスチャンに対し、下品なこと、みだらなこと、そしり、恥ずべきことばを取り除くように、と念を押しました(エペ5:8、コロ3:8)。これらは、過去の生活の言葉であり(Ⅰコリ6:9-11)、イエスによって新しい人生が与えられた今の彼らには、ふさわしくないものでした。新しく再生した者の生き方は、健全な言葉によって特徴づけられるべきです。彼らの良質で健全な言葉は、聞く人に恵みを与えます(エペ4:29)。聖霊は、私たちの口を守り、下品なことを言うと叱ってくださり、人の益になる言葉を使えるように助けてくださいます(ヨハ16:7-13)。

私たちは、自分のすべてをもって、神の栄光を映すように召されています。その中には、口から出る言葉も含まれています。私たちの口から出る言葉が、感謝に満ち溢れていますように。そして、他の人に益を与える言葉で満たされていますように。

親切な言葉

友人のスコットは、仲睦まじい妻の両親を心から尊敬していたので、ある日、幸せな結婚生活の秘訣をふたりに尋ねました。すると義父のケンは、「お互いをいたわり続けることだよ」と答えたそうです。また別の友人は、私たち夫婦(その他の夫婦にも)に送る手紙の結びにいつも、「お互いに相手を大切にすることを忘れないでね」と書きます。