すべての機会を
息子にせがまれてスマホにゲームを入れました。自分のいる場所の風景に色とりどりの生き物が現れ、それを捕まえるというものです。このゲームは行く先々が競技場になるので以前より歩くようになりました。これで息子と遊ぶときは、現れた生物を捕まえるチャンスを最大限に活用しようと頑張ります。やみつきになるこのゲームに、引き込まれ、没頭してしまいます。しかし、ある問いが心に浮かび、自責の念にかられました。神が私の周りに置かれた機会を最大限に活用しようと、これほど頑張っているでしょうか。
想像を絶する
バート・ミラードが作詞作曲した「アイ・キャン・オンリー・イマジン」は、2001年に大ヒットしました。翌年、私たち夫婦は17歳の娘を交通事故で亡くし、この歌に慰められました。それはキリストの臨在の内に入る素晴らしさを歌い、私たちは神の御前にいる娘を想像しました。
近くにいる隣人
多くの自治体がWebサイトを使って、地域がつながるように助けています。私の住む町では、ピューマの目撃情報や山火事の避難指示の他、子育て世代同士が必要に応じてベビーシッターをし合うためにも使われています。迷子になったペットを探すことさえできると分かりました。今日の忙しい生活の中で失われがちだった地域社会のつながりは、インターネットの力によって復活しています。
互いにつながる
ルワンダ共和国では1994年、2ヶ月間に百万人ものツチ族の人々が、フツ族に虐殺されました。ジェフリー・ルブシシ主教は妻のメアリーに、最愛の人たちを殺された女性に手を差し伸べようと言いました。彼女は「私はただ泣きたい」と答えました。自分の家族も殺されたのです。彼の返答は、賢明なリーダーであり、思いやりある夫のそれでした。「メアリー、そうした女性を集めて、ともに泣きなさい。」辛いからこそ、彼女だけにできる痛みの共有があると知っていたのです。
賛美の声をあげよ
地図の真ん中に何があるかを見れば、その地図がどこで描かれたか分かると一般的には言えるでしょう。人は自分のいる場所を世界の中心だと考えがちなので、そこに点を打ち、そこから描き始めるからです。近くの街は北に80キロか、車で南に半日の距離かもしれませんが、すべては自分のいる場所を基準に表現します。ところが詩篇は、旧約聖書に述べられた神の地上の住まい、つまり、エルサレムを中心としました。
大切なこと
私は頭を抱え「どうすればできるの?」とため息をつきました。受話器の向こうの友人は「もっと自分を認めるべきだ」と言い、私が働きながら大学院でよい成績を修め、健康的な生活をし、文筆活動をし、聖書研究会に出席するなど、多くのことをしていると言ってくれました。どれも神のために始めたのに、やることにとらわれ過ぎて、その姿勢がなおざりになっていたのでしょうか。それともやることが多すぎたのでしょうか。
大きな神の愛
ドミニカ共和国のサント・ドミンゴの貧困地区に行ったことがあります。トタン張りの家で電線はむき出しです。私はそこで、人々が失業、薬物、犯罪と闘うために、教会がどのように役立っているかアンケート調査をしていました。
フレンドシップベンチ
戦争のトラウマと高い失業率で絶望したジンバブエの人々は「フレンドシップベンチ」で希望を見つけました。そこには傾聴の訓練を受けた優しい年配の女性たちがいて、うつ状態にある人々の話を聴いてくれるのです。
きよい器
米国の第41代大統領、ジョージ・H・W・ブッシュ氏の葬儀で弔辞を述べたアラン・シンプソン元上院議員は、憎しみは己を入れる器を蝕むと語りました。そして、公私両面で憎悪にとらわれず、愛やユーモアを大切にしていた親友を偲びました。彼の言葉は、私たちにも当てはまります。憎しみにとらわれてしまうと、自分が壊れていきます。