秩序の神
セスは家にあった薬を全部飲みました。崩壊家庭で育った彼の人生は混とんそのものでした。父は自死するまで妻を日常的に虐待していました。セスは人生を終わらせようと思ったのです。しかし、「死んだらどこに行くのだろう」という思いが頭をよぎりました。そして、神のあわれみによって命を取り留め、やがて友人と聖書を学び、イエスを自らの救い主に迎えました。彼が神に引かれた理由の一つは、被造物の美と秩序に気付いたことです。「そこに美があります。誰かがこの全てを造ったのです」と語りました。
永遠なる神の臨在
モニークには数名のキリスト者の友人がいました。彼女たちが自分の悩みに向き合う姿を尊敬する一方で、少しねたましくもありました。あんなふうにはできないと思ったのです。彼女は悩んでいました。彼女にとって、キリストを信じるとは、ルールに従うことでした。しかし、大学の友人の助けがあり、神は彼女を束縛しようとしているのではなく、むしろ浮き沈みがある中でも最善を願っておられると気付きました。こうしてモニークは、イエスを自分の救い主として信頼し、神の素晴らしい真実なる愛を受け入れたのです。
心地よい眠り
悪い思い出や非難の数々がよみがえり、ソルは寝付けませんでした。心は恐怖で満たされ、じっとり汗をかいています。明日は洗礼式なのに、どす黒い思いが襲来します。イエスの救いを受け入れ、己の罪は赦(ゆる)されたと分かっているのに、霊の闘いは続いていました。その時、妻が手を取って祈ってくれました。すると、恐怖が消え、平安が訪れました。彼は起き上がり、洗礼前に話す証しを書きました。それまで出来なかったのです。その後、心地よい眠りにつきました。
いのちの冠
リーアディアネス・ロドリゲス-エスパダは、5kmマラソンに出場予定の12歳の少女でしたが、スタート時刻に遅れることを心配しすぎて、15分前に発走するハーフマラソンの選手と一緒にスタートしてしまいました。そして、集団のペースに合わせて走りました。6km走った時点で、ゴールが見えないため、より長く困難なレースに参加してしまったと気付きました。しかし、棄権はせずに走り続けました。意図せずしてハーフマラソンの選手となった少女は、21kmのレースを完走した2111人の1人となり、1885位でゴールしました。すごい精神力です。
壁を壊して一つになる
ベルリンの壁は家族や友人を分断してきました。東ドイツ政府が市民の逃亡を防ぐために1961年に建設したのですが、実際、250万人以上が1949年から壁の完成までに西側に移ったと推定されています。米国レーガン大統領は、1987年、壁の前で「この壁を壊しなさい」と演説しました。彼の言葉は歴史の大きなうねりを反映しており、それが頂点に達した1989年、壁は崩壊し、やがてドイツは再統一しました。
信仰によって見る
朝の散歩の時、ミシガン湖を絶妙な角度で照らす光が作る風景を写真に収めようと、一緒にいた友人に少し待ってほしいと頼みました。そして、スマホを取り出しましたが、光が当たった画面では景色が確認できません。しかし、以前にもやったことがあったので、素晴らしい写真が撮れると確信していました。私は友人に「見えなくても、こういう写真は大概よく撮れるものよ」と言いました。
余白を作ろう
医師のリチャード・スウェンソンは、著書『余白』の中で次のように書いています。「私たちは息をするゆとりを持たねばならない。物思いにふけり、癒やされる自由が必要だ。人間関係は慌ただしさのおかげで瀕死の状態……子どもたちは大人が良かれと思って詰め込んだものに押しつぶされ、あえいでいる。神は消耗戦に賛成なのか。静かな水辺には導いてくださらないのか。ゆったりとしたあの時を奪ったのは誰だ。取り戻す方法はないのか」。スウェンソンは、私たちには静かで豊かな「余白」が必要だといいます。神と会い、神のもとで安らげる場所です。あなたも同感ですか。
私の兄イエス
突進してきた猛犬の前にちゅうちょなく飛び出し、妹の盾になったブリジャー・ウォーカーはわずか6歳でした。顔を90針も縫う大けがをしましたが、「もし誰かが死なねばならないのなら、それは僕だと思った」と語りました。感謝なことに、形成外科医の尽力で彼の顔は再建されました。そして、最近の兄妹の写真も、ブリジャーの妹思いを証します。
夢ではない
離人感または現実感喪失と呼ばれる症状に苦しむ人は、覚めることのない夢の中で暮らしているようだといいます。何もかもが現実でないように感じるそうです。そのような状態が慢性的に続くと病気ですが、強度のストレスにさらされると誰にでも起こりうる精神状態だといいます。しかし、この感情は順風満帆の人にも起こりえます。良いことが本当に起こっているのに、どこかで信じていないのです。聖書にも、神の力と解放が夢のようで、現実なのに実感が伴わない、という出来事が記されています。天使はペテロを牢(ろう)と死刑の危機から救い出しました(使12:2、4)。しかし、当のペテロは、まるで幻覚を見ているようで、自分の身に起こっていることなのかどうかよく分からなかったといいます(9-10節)。外に出て天使が立ち去った時、ようやく「我に返って」、本当に起こったのだと気付きました(11節)。