楽しんで戦う
息子のブライアンは、高校のバスケットボール部のコーチです。ワシントン州のトーナメントを勝ち進んだ年、町の人は良かれと思って「今年は優勝ね」などと声を掛けてくれました。ところが、選手もコーチも、それをプレッシャーに感じたのです。そこでブライアンは、楽しんで戦うことをモットーにしました。
ピンを並べる
友人のエリンが足首にタトゥーを入れました。ボウリングのピンが倒れている絵柄です。彼女は、サラ・グローヴスの「ピンを並べる」という歌から発想したと言いました。ボウリングのピンは、並べても並べても倒されます。この歌は、一見無意味に見える日常の繰り返し作業や雑務の中に喜びを見つけようと、聴く人たちを励ますのです。
洗濯、掃除、皿洗い。私たちの生活には、片づけたと思ったら、始めなければならない繰り返し作業がたくさんあります。この種のイライラは古くからあるもので、伝道者の書にも同様の葛藤が記されています。著者は日々の労苦はすべてが空しいと語り始めます。「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる」(1:9)ので無意味だと語ります。
しかし、彼は私の友人のように、それらのことに喜びと意味を見いだすことができました。神を畏れ敬い、神の命令を守るなら、最終的に人生は満たされると思い至ったのです(12:13)。神は日常のありふれたことにも目を留めてくださり、忠実さに報いてくださるお方だと分かるとほっとします(14節)。
あなたが並べ続けている「ピン」は何ですか。終わりのない仕事に疲れを感じ始めたなら、立ち止まって、そのひとつひとつは神への愛のささげ物だと意識しましょう。
聖書の処方箋
グレッグとエリザベスの家では、学校に行っている4人の子どもと一緒に「ジョークの夕べ」を定期的に持っています。夕食の時、各々がどこかで読んだり聞いたり(自分で作ったり!)したジョークを披露します。これは一家が育んできた伝統で、食卓を囲んで楽しく過ごした思い出になります。笑いは、苦しい時でも気持ちを明るくし、子どもたちの健康にも良いようです。
最も小さい者に仕える
山火事が迫る中、男性が高速道路の脇にひざまずき、手を打って必死に何かを呼んでいました。犬を呼んでいるのかなと思った瞬間、ウサギがピョンと跳び出しました。男性はおびえたウサギを抱き上げ助けてあげました。このような小動物の救出シーンが、全国ニュースになるのはなぜでしょう。人は小さなものをいとおしむことに心惹かれます。しかし、小さなものを慈しむには大きな心が必要です。
困難の中で喜ぶ
友人の留守電は「素晴らしい一日を!」と言いますが、自力で毎日を「素晴らしい日」にすることはできません。惨めな状況に置かれることもあるでしょう。しかし考えてみると、物事が順調か否かにかかわらず「人生は捨てたものではない」と感じる美しい瞬間が、どんな日にもあるように思います。
優先順位を考える
チェロを習いたいとずっと思っていました。しかし、教室に行く時間がありません。いいえ、正確に言えば、その時間を作らなかったのです。天国に行けば、きっと上手に弾けるでしょうから、今は、神に召されたことに集中して時間を使おうと考えてきました。人生は短いですから、時間を最大限に生かさなければと強く思います。しかし、それは一体どういう意味なのでしょう。
喜び
私は年齢を重ねていくことを意識するようになりました。今、人生の「冬」の季節に向かって足早に進んでいます。まだ「老い」の領域に達してはいませんが、時の流れがあまりに速く、戸惑うことがあります。
そんな私を支えるのは喜びです。今日という日は主にいただいた新しい日です。私は詩篇の作者とともに「主に感謝するのは、良いことです。…朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表すことは」(詩92:1-2)と語ります。
私の人生にも数々の闘いがあり、周りの人の痛みや困難に押し潰されそうになることもあります。しかし私は、詩篇の作者とともに、主の御手のわざを、喜び歌います(詩92:4)。私は、家族、友だち、満足な仕事という祝福をいただいていることに喜んでいます。神の創造の不思議と神の霊感によるみことばがあるので喜びます。イエスに愛され罪をあがなわれたので喜びます。また、神が聖霊をくださったので喜びます。聖霊は真の喜びの源です(ロマ15:13)。主がおられるので、信じる人は「なつめやしの木のように栄え、…年老いてもなお、実を実らせ」ます(詩92:12-14)。
どんな実が実るのでしょう。私たちは年齢や状況に関わらず、自分の生き方や発言によって、神の愛の模範になることができます。神を深く知り、神のために生き、神を語る者とされる人生には喜びがあります。
普段の生活
食料品をトランクに積み込み、ゆっくり車を出そうとすると、突然、男の人が前を横切りました。こちらに全く気づいていません。とっさにブレーキを踏み、止まりました。その人はびっくりして顔を上げ、私と視線が合いました。むっとするか、「大丈夫よ」と笑顔を向けるか、それは私の選択です。私は笑顔を選びました。彼の顔に安堵と感謝の表情が浮かびました。
あの有名な微笑み
パリのルーブル美術館を夫婦で訪れた日、11歳の孫に電話して、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」を見たと話しました。すると彼女は「笑顔だった?」と尋ねました。それは謎なのです。ダ・ヴィンチがこの油絵を描いてから600年以上経ちますが、この女性が微笑んでいるのかいないのか、それは未だに不明です。私たちはこの作品の美しさに魅了されますが、モナ・リザの表情を理解することはできません。