感謝の生活
自分の霊性を育て、感謝に溢れた人生を送ることを願って、スーは「感謝の瓶」を始めました。彼女は毎晩、神に感謝することをひとつだけメモ用紙に書いて瓶に入れました。神をたたえることがたくさんある日もあれば、ひとつ探し出すのに苦労する日もありましたが、大晦日、瓶をあけて、それらのメモを読み返しました。すると、神の成してくださったすべてのことに、再び感謝せざるをえませんでした。神は美しい夕暮れや心地良い散歩のような、小さな幸いもくださいましたし、祈りに応えてくださって、困難な状況に対処する導きもくださいました。
私は豊かだ
アメリカのテレビコマーシャルに、玄関のベルが鳴り、出てみると巨額の小切手を渡されるというものがあります。受取人は驚いて、叫んだり、飛び跳ねたり、小躍りしたり、誰かれとなく抱きついたりします。「やったぁ、大金持ちだ!ああ、信じられない。これでみんな解決だ!」一攫千金で爆発する感情は、すさまじいものです。
サンキューゲーム
コーナーストーン大学では、毎年の感謝祭に、おいしいごちそうを振る舞います。学生たちは、このパーティーが大好きです。去年、学生たちはここであるゲームをしました。感謝していることを3秒以内に告げるというゲームです。誰かと同じことを言ったり、時間切れになったりすると、そこから抜けなければなりません。
数えることを学ぶ
息子は1から10まで数を数える練習をしていて、おもちゃから木まで、何でも数えます。私が目も留めないもの、例えば、道端に咲く花や私の足の指も数えます。
砂の楽園
現在のアーチズ国立公園(ユタ州)で夏場に自然保護官を務めたエドワード・アビーは、自分史「砂の楽園」を記しました。その巧みな言葉の選び方と米国南西部の生き生きとした描写は、一読の価値があります。しかしアビーは無神論者だったので、卓越した審美眼を持っていても、自然の美しさを表面的に見ることしかできません。生涯、美を賛美したのに、悲しいことにその核心を見逃していました。
着目する
特別なことがあって家に人が来るとき、掃除するのは憂鬱です。きれいになったところは気づかれず、汚れが取れない所は目立つと思うからです。信仰かつ哲学的な疑問のひとつは、「なぜ人は良いことではなく、悪いことに目を留めがちなのか」です。私たちは、人の親切より無礼を覚えていがちです。慈善より犯罪の方がニュースになります。自然の美しさより自然災害の方が、人の心を捕えます。
感謝を忘れる
ギィー、ガァー、ギィー、ガァー。激しい雨の中、ワイパーのきしむ音が私をさらに苛立たせました。生活に必要な現金を調達するために、私は、より安全な愛車を手放し、走行距離約13万キロメートル、子供用の側突エアバッグも付いていない古い中古車を買いました。その時までに貯金は底をつき、自宅も手放していました。生命にかかわる病気の医療費が健康保険では支払われず、家計がひっ迫していました。「神さま、もうたくさんです」と、私は大声で言いました。「横から当たられたら、子どもたちを守ることもできない。何かあったら、どうしてくれるんですか。」
違反きっぷの代わりに
ひとりの警察官が、チャイルドシート無しで幼児を乗せていた女性を停車させました。普通なら違反きっぷを切るのですが、代わりに、近くの店に行くように言い、自腹でチャイルドシートを買ってあげました。彼女は貧しくて、それを買うお金がなかったのです。
豆はいらん
夕食の席でグリーンピースの大皿を回すと、幼かった息子は、「いらん!」とぶっきらぼうに言いました。私たち夫婦は息子に「結構です」と言って欲しかったので、「『いらん』じゃないでしょ?」と言い、マナーを身につけるのは大切だという話をしました。実際、私たちの家庭は、こういう話し合いを大切にしてきました。