まことの犠牲
エリックは善良で正しい人でした。警察官という職務は地域社会に対する奉仕だと考え、すべてをささげて忠実に任務に励みました。それが彼の信念だったということは、自分のロッカーのドアにヨハネの福音書15章13節のみことばを貼っていたことでも分かります。
主イエスはここで、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」とおっしゃっています。エリックにとって、これは絵に描いた餅のような理想ではありませんでした。これはまさに、彼の警察官としての責任感を表わしていました。そして、その強い責任感は、彼に殉職という究極の犠牲を支払わせました。自己犠牲の精神を身をもって示してくれたのです。
イエス・キリストは、ヨハネの福音書15章13節の鮮烈なみことばを語られてから数時間のうちに、ご自分のみことばを実行に移され、全うされました。二階の広間でこのみことばを語られたあと、イエスは、ゲツセマネで父なる神とひとつになって交わりを持たれました。そして捕らえられ、数々の非合法的な裁判を経て、あざけり笑う民衆の面前で十字架にはりつけになりました。
イエスは神の御子ですから、苦痛や拷問、残忍な仕打ちを逃れようと思えばそれができたでしょう。イエスは全くの無実でしたから、死刑になる筋合いなどありませんでした。しかし、真の犠牲のささげものであるイエスは、その原動力である愛にかき立てられるように、十字架に向かわれました。そのおかげで私たちは、イエスの犠牲とよみがえりを信じて受け入れさえすれば、自分の罪を赦していただけるようになったのです。
さあ、あなたのために死を選ばれた方を、あなたは信じますか。
確かな救い
イギリスを19世紀に治めたビクトリア女王が、あるとき、主日礼拝で大きく心を揺さぶられたそうです。礼拝の後、女王は司祭に、「この世の人生で永遠の確証を得ることはできますか」と尋ねました。ところが司祭は、答えることができません。一方、ジョン・タウンゼントという名の伝道者は、女王の質問を耳にし、よく祈った後、手紙を書きました。「恐れ多いことではございますが、この知らせを震える手で書いています。イエスが天に備えられた家で永遠に生きることの確証を今、得ることはできると存じます。女王陛下、どうかヨハネの福音書3章16節とローマ人への手紙10章9~10節をお読みいただきますよう、お願い申し上げます。」
2週間後、タウンゼントは手紙を受け取りました。そこには「記されていた聖書のみことばを、注意深く、祈り心で読みました。私は、キリストが私のために完成された御わざを信じます。そして、『わたしが行って、あなたがたに場所を備える』と仰せになったその家で、神の御恵みによって、あなたにお会いできると確信します。-ビクトリア」と書かれていました。
タウンゼントは、永遠のいのちの確証をこの世の人生の中で得ることができると確信していました(9節)。また、自分以外の人たちのことも心配していました。あなたの永遠の終着点について、ヨハネ3章16節とローマ10章9~10節は、どのような意味を持つでしょう。それについて、ぜひ考えてください。神は、自分の罪は赦されたという確信をあなたにあげたいと願っておられます。この世の生命が終わったなら、神と永遠に過ごすことができるのだという確信を、あなたに与えたいと願っておられるのです。
(Brent Hackett、RBCミニストリーズ カナダ ディレクター)
ただであげます
信じられないような大金を「あげます」というメールが毎日送られてくることに驚いています。先日、1週間分の金額を合計してみたところ、私の取り分は約20億円になりました。しかし、「賞金は100万円」も、「1千万円差し上げます」も、すべてはお金をだまし取ろうとする悪い人たちが送信しています。
私たちはみな、ただには弱いものです。けれども現実には、ただほど怖いものはない、という言葉のとおり、詐欺行為の場合がほとんどです。偽りの希望を差し出され、その夢は打ち砕かれてしまいます。
一方で、信じがたいほど良いにもかかわらず、正真正銘の話がひとつだけあります。それは、神が提供してくださった福音です。イエスが十字架上で成し遂げられたわざを信じれば、たましいの救いが与えられるという知らせです。聖書は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と語ります(使16:31)。このような救いを提供するために、神は非常に大きな犠牲を払われました。一方、私たちは非常に大きな恩恵を受けたのです。ローマ人への手紙は、「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」と語っています(ロマ4:25)。
この救いを受け取るなら、永遠のいのちの望み(テト1:2)、神との平和(ロマ5:1)、罪の赦し(エペ1:7)、限りなく豊かな恵み(エペ2:7)、そして、あがない(エペ4:30)が与えられます。この取引きは詐欺ではありません。イエスの死と復活がそれを保証しています。
単純にしよう
アメリカ合衆国第4代大統領ジェームズ・マディソンは、この国の憲法の起草に尽力しました。彼は、「読めないほど膨大であったり、ごちゃごちゃしていて理解しづらい」法律を作ってはいけないと警告しました。私は役所に提出する記入用紙を読みながら、お役人たちはマディソン大統領の言葉にもう少しきちんと耳を傾けてほしいと思いました。
福音を人に伝えるとき、ことを必要以上に複雑化してしまうことがあります。うれしいことに聖書は、救いの良き知らせを明瞭で平易なことばで伝えています。イエスは、学識あるパリサイ人のニコデモに、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と語られました(ヨハ3:16)。また後に、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」とも言われました(14:6)。使徒パウロは、どうしたら救われるのか、と尋ねたピリピの牢獄の看守に、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と端的に語りました(使16:31)。
神の麗しいラブストーリーは単純です。神は、私たちを罪と死から救い出すために、ご自分のひとり子を遣わされました。子どもでさえ理解できる、素晴らしい話です。
打ち勝つ
ラジオでセミナーの宣伝をしていました。「死に永遠に勝ち続けよう。その方法をお教えします」と面白いことを言っていました。どんな方法で死に勝ち続けられるというのだろうと、少し興味を持ちました。ダイエットかエクササイズ、または死後の身体を冷凍するという類の話かしらと思いましたが、実は私の聞き違いで、正しくは「借金に勝ち続け…」でした。(注:英単語の「死」と「借金」は音が少し似ています。)
最高のニュースは、イエスが私たちの負債を支払ってくださったので、私たちは死に打ち勝つことができるというものです(Ⅰコリ15:55-57)。罪という負債があると、神から切り離されています。しかし、イエスは自らすすんで十字架にかかり、ご自分のいのちで私たちの負債を払ってくださいました。マグダラのマリヤと他のマリヤは、イエスの死から3日目にイエスが葬られた墓を訪れましたが、御使いが現れて「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです」と語るのを聞きました(マタ28:6)。ふたりは大喜びで弟子たちにそれを知らせに行きましたが、その途中、イエスがふたりの前に現れました。主は「平安あれ」(口語訳 9節)と言われました。イエスは復活され、イエスに従う人たちには喜びが与えられました。
イエスは死のとげを取り去られました(Ⅰコリ15:55)。神の御子イエスの死と復活を信じるならば、私たちもまた勝利します。イエスの完全な御業によって、私たちは永遠に死に勝ち続けられます。
良い人
ジェラルド・スティーブンスの告別式で、「ジェリーは良い人でした…妻に誠実を尽くし、良き父、良き祖父でした。軍人として国に仕え、良き友でもありました」と、牧師は語りました。ところがそれに続けて、「ジェリーの善良な生き方や良い行いは、彼が天国に行くことを保証するものではありません」と言ったのです。もしジェリーがこの場にいたなら、誰よりもはっきりとそのことを語るだろう、とも言いました。
ジェリーは、聖書の「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず…」(ロマ3:23)や「罪から来る報酬は死です」(6:23)というみことばを信じていました。人生の終着点である永遠の居場所を決めるのは、自分が良い人であったか否かではなく、イエスが贖罪のために身代わりに死んでくださったという事実です。ジェリーは、各個人がこの神の無償の贈り物、つまり「私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのち」(ロマ6:23)をいただかなくてはならない、と信じていました。
ジェリーは良い人でしたが、完璧ではありませんでした。私たちも同じです。私たちが救われるのは、ただ神の恵みによるのであって、人間の努力とは無関係です。それは「神からの賜物」(エペ2:8)です。
ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します(Ⅱコリ9:15)
悲しみを鞄に詰めて
激動の1960年代、アメリカで流行した音楽は、反戦と愛国心の入り混じった奇妙なものでした。戦争や貪欲、社会の不正義を激しく非難する音楽がある反面、国家への忠誠や伝統的な価値観を重視する歌もありました。しかし、リチャード・ファリーナとポーリン・バエズ・マーデンが作った「悲しみをわが手に」は、あらゆる意味で心の平和を求めることを歌っていた曲だといえます。サビの部分は次のように語りかけます。「ねえ。何とかして君の悲しみを鞄に詰めることができたなら、それをみんな僕にくれないかい。君はそれを失うんだ。僕は使い道を知っているよ。それをみんな僕にくれないかい。」
心の平安を本当にくれる人がいると良いのに、と誰もが思うでしょう。そんなあなたに良い知らせがあります。イザヤ書の、イスラエルに約束された救い主を預言しているみことばを読んでください。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。…彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(53:4-5)。平安をくださるお方がおられます。クリスチャンはイエス・キリストの死と復活によって、このみことばが実現したことを知っています。
私たちの罪も痛みも、イエスが負ってくださったので、私たちは赦され、神との間に平和が与えられました。あなたも今日、あなたの痛みをイエスに渡しませんか。
どうでもよい存在
レアは「ヤコブが起きたらどうなるのだろう」と考えながら、一晩中起きていたに違いありません。新婚の夫が朝になって目にしたいのは、自分の姿ではなく妹のラケルだということを知っていたからです。ヤコブはだまされました。そして、罠にかかったと気づくやいなや、意中の女性を求めて、新たな取引をしました(創29:25-27)。
あなたは、自分はどうでもよい存在だと感じたことがありますか。レアの場合はそうでした。彼女が3人の子どもにつけた名前から、それが分かります(31-35節)。ルベンは「子を見よ」、シメオンは「聞かれる」、レビは「結ぶ」という意味でした。彼らの名前は言葉遊びのようなもので、彼女が夫の愛を感じていなかったことを示しています。息子が誕生するごとに、彼女は今度こそ夫は愛してくれるだろうか、と望みをかけました。しかし、レアの気持ちは徐々に変化し、4番目の息子を「ほめたたえる」という意味のユダと名付けました(35節)。きっと彼女は、夫は愛してくれなくても、神が自分を深く愛してくださっている、と気づいたのでしょう。
私たちは、自分の行いによって神の愛を獲得することはできません。神の愛は、私たちの行為次第ではないからです。真理は聖書に記されています。それは、「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった」と語ります(ロマ5:8)。私たちは神の目に、天国にある最高の存在を贈るだけの価値があると映っています。天国にある最高の存在とは、神の大切な御子キリストです。
最高の人生
数ヶ月前、フロリダに出張した帰りの飛行機の座席は、思いがけず足元のスペースが広い席でした。その上、隣は空席だったのでラッキーです。これならば、狭い場所に縮こまらなくてよいどころか、ゆっくり昼寝ができるかもしれません。
しかしふと、あまり快適でない席にいる同僚たちのことを思いました。何人かに隣の席に来るように誘いましたが、驚いたことにあれこれ理由をつけて誰も移動しません。移動するのはめんどうだし、今の席で十分だと言うのです。
クリスチャンは、もっと大切なことに人を招待しなくてはなりません。招待を受け入れる人も、そうでない人もいるでしょうが、自分はキリストを信じる新しい人生を受け取り、他の人にも同じ経験をして欲しいと願っているのなら、そうすべきです。ヨハネの福音書1章40節を読むと、アンデレは、イエスについて行ったことが分かります。そして最初にしたことは、兄弟のシモンを見つけて、メシヤであるイエスに会わせる、ということでした(41節)。イエスはこの兄弟たちに、キリストを知り、キリストの約束を体験する新しい生き方を示されました。その約束とは次のことです。イエス・キリストの贖い(ロマ3:24)、イエスは決して離れずあなたのそばにいる(ヘブ13:5)、イエスは希望にあふれさせてくれる(ロマ15:13)、イエスは平安を与えてくれる(ヨハ14:27)、そして、イエスはいつまでもともにいてくださる(Ⅰテサ4:17)。
あなたもイエスを信じる輪に加わりませんか。イエスは最高の人生をくださいます。