悲しみを鞄に詰めて
激動の1960年代、アメリカで流行した音楽は、反戦と愛国心の入り混じった奇妙なものでした。戦争や貪欲、社会の不正義を激しく非難する音楽がある反面、国家への忠誠や伝統的な価値観を重視する歌もありました。しかし、リチャード・ファリーナとポーリン・バエズ・マーデンが作った「悲しみをわが手に」は、あらゆる意味で心の平和を求めることを歌っていた曲だといえます。サビの部分は次のように語りかけます。「ねえ。何とかして君の悲しみを鞄に詰めることができたなら、それをみんな僕にくれないかい。君はそれを失うんだ。僕は使い道を知っているよ。それをみんな僕にくれないかい。」
心の平安を本当にくれる人がいると良いのに、と誰もが思うでしょう。そんなあなたに良い知らせがあります。イザヤ書の、イスラエルに約束された救い主を預言しているみことばを読んでください。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。…彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(53:4-5)。平安をくださるお方がおられます。クリスチャンはイエス・キリストの死と復活によって、このみことばが実現したことを知っています。
私たちの罪も痛みも、イエスが負ってくださったので、私たちは赦され、神との間に平和が与えられました。あなたも今日、あなたの痛みをイエスに渡しませんか。
こっそり逝ったおじいちゃん
従兄弟のケンは4年もの間、癌と勇敢に闘いました。最後の日には、妻や3人の子どもたち、そして孫たちが、次々に病室にやって来て、特別な別れの時を過ごしていました。ところが、たまたま部屋に誰もいなかった数分の間に、ケンは永遠への旅に出かけて行ったのです。家族のみんながそのことに気づいたとき、幼い孫娘が、かわいらしく言いました。「おじいちゃんは、こっそり逝っちゃったんだね。」
ほんの少し前まで、神はケンと一緒にこの地上におられました。しかし、次の瞬間、ケンのたましいは、神とともに天国に移されました。
詩篇16篇は、ケンが好きだった詩篇です。自分の葬儀では、ここを読んで欲しいと言っていました。詩篇の作者ダビデは、神との個人的な関係ほど貴重な宝はないと語りましたが、ケンもまったく同感でした(16:2、5)。ダビデは、「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず…」と述べました(16:10)。神を避け所とするならば、死がクリスチャンのいのちを奪い取ることはできません。ダビデは、そのことが分かっていました。ケンであれ、誰であれ、イエスを救い主と信じる人は誰でも、死に捨て置かれることはありません。
イエスが死んで復活してくださったので、私たちもいつの日かよみがえります(使2:25-28、Ⅰコリ15:20-22)。そして、神の右には楽しみがとこしえにあることを知ります(詩16:11)。
簡単なレシピは無い
孫の誕生日パーティーのために、妻はチョコチップ入りの大きなクッキーにデコレーションしました。彼女はレシピ本を調べて材料を調達し、一つひとつのステップに従ってクッキーを焼きましたが、シンプルなレシピだったので、すべてがうまくいきました。
人生もこうなら良いと思いませんか。シンプルなレシピに従うだけで、幸せな人生を謳歌できるなんて。
ところが人生は、そう簡単にはいきません。私たちは堕落した世界に生きているので、痛みや苦しみ、不正義や喪失を免れさせてくれるレシピはないのです。
苦しみのただ中にあるとき、私たちは救い主に個人的にかかわっていただいて助けていただかなければなりません。主は、この世に生き、私たちと同じ苦悩を体験されました。
へブル人への手紙4章15節は、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」と語ります。このみことばは、私たちを勇気づけてくれます。キリストは、私たちにいのちを与えるために死なれました。そして、私たちが辛い闇の中を通るときにも、最後までしっかりと支え抜いてくださるお方です。「私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」と聖書が述べているとおりです(イザ53:4)。
人生の痛みを避ける簡単なレシピがないことを、イエスはご存知です。だからこそ、イエスは私たちのところに来てくださいました。悩みも苦しみも一切、このお方に委ねてみませんか。
待ちなさい
サンフランシスコで車の渋滞に巻き込まれた男性が、しびれを切らして隣の車線に移りました。そして、停車している車の列を追い越して行こうとしました。ところが、この車線は工事中で新しいセメントが敷かれたばかりです。男性のポルシェ911は、セメントの泥にはまって動かなくなってしまいました。彼の短気は非常に高くついたのです。
聖書にも、忍耐できなかったために高い代償を払った王の話があります。イスラエルの王サウルは、ペリシテ人との戦いを目前に控えて、神の祝福を得ようと思いました。ところが、いけにえをささげるはずのサムエルが予定どおりに到着しません。サウルは忍耐することができず、しびれを切らせて神の命令に背いてしまいました(Ⅰサム13:8-9、13)。遅れに我慢できない性格が、サウルを自分は律法以上の者だと勘違いさせました。そして、祭司にしか許されていない奉仕を行ったのです。神の教えに従順でなくても何とかなると思ったのかもしれませんが、それは間違いでした。
到着したサムエルは、サウルの不従順を批判し、その罪のために王国を失うだろうと預言しました(13-14節)。サウルは、神のご計画が実現されていくのを忍耐して待つということを拒絶して急ぎ足で行動し、大きな失敗を犯しました(箴19:2参照)。サウルの忍耐の無さは、彼の不信仰を顕著に現していたのです。
神のみこころの実現を忍耐強く待つなら、主がともにいて導いておられることは明らかにされてきます。
エール
ジョン・グレンは1962年に、地球周回軌道を初めて飛行したアメリカの宇宙飛行士です。ロケットが上昇したとき、地上の管制官はジョンに向けてエールを送りましたが、それは「神があなたを繁栄させてくださるように!」という意味の言葉でした。
このような支援の気持ちを表すことばのふさわしい使い方について、聖書の中に教えが残っています。それは、ヨハネの手紙第二1章10節に「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません」と記されている、この「あいさつのことば」と訳された部分です。
使徒ヨハネは「愛の使徒」と呼ばれていました。にもかかわらず、なぜ、このように教えたのでしょう。それは、当時の伝道者たちの生活に関連しています。伝道者たちは、各地で教えを宣べ伝えましたが、その際の宿や食事は、キリスト者である兄弟姉妹が提供していました。ヨハネは、聖書の真理が重要であり、旅の伝道者の教義が使徒の教義と違うならば、その人を家に泊めたり、お金をあげて支援をすべきではないと教えたのです。
これは今日のクリスチャンにも言えることです。私たちは、神にあわれみを受けているのですから、すべての人に親切にしなければなりません。しかし、誰かの計画に金銭的な援助を求められたときは、いつでも、神の知恵を求めなくてはなりません。私たちを真理へ導いてくださる聖霊(ヨハ16:13)は、いつ、誰を支援するのが適切なのかを示してくださいます。
不可解な真実
無限の神が、有限の人間にご自分の心を伝えようとなさっても、その結果は不可思議としか見えないことがあります。その一例は詩篇の一節、「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」(詩116:15)です。一読では納得のいかない、むしろ疑問の深まる個所です。
そんなことがあるだろうかと思ってしまいます。私たちは持って生まれた肉の目でものごとを見ます。そして、最愛の17歳の娘を交通事故で奪われた私は、このことの何が「主の目に尊い」のだろうと思います。愛する人を奪われた人はみな、そのように思うのではないでしょうか。
けれども、主の目に尊いとは、地上の恵みを受けることに限定されないと考えるとき、この謎は解明されていきます。このみことばは、天国の視点に基づいています。例えば、私は詩篇139篇16節を読んで、娘のメリッサが天国に入ることは予定どおりだったと納得することができました。神は彼女の到着を心待ちにしておられ、それは「主の目に尊い」ことでした。また、ご自分のところに迎え入れられた神の子どもたちが、長子であるイエスと対面して感動に酔いしれるとき、その姿をご覧になった天の父である神は、どれほど嬉しいことでしょう(ヨハ17:24参照)。
キリストを信じる人が死ぬとき、神は、両手を広げてご自身の臨在の中に、その人を迎え入れてくださいます。私たちは涙を流しますが、それでも、その人の死が神の目にどれほど尊いかは理解することができます。
立ち往生
テネシー州のメンフィスからミズーリ州のセントルイスまではバスで6時間です。ただし、これは運転手が乗客をサービスエリアに置き去りにしない場合の話です。ある日、バスに乗っていた45人の乗客は、最初の運転手に置き去りにされると、代わりの運転手が到着するまで夜通しで8時間、待つはめになりました。彼らは予定が狂ったことに苛立ち、このままで果たして大丈夫だろうかと不安を感じたでしょう。今か今かと、救援の到着を待ちわびていたに違いありません。
身に覚えのない罪で獄中にいたヨセフの気持ちは、この人たちの比ではなかったでしょう(創39章)。助けてもらえるはずの人に忘れられてしまって、途方に暮れたに違いありません。しかし、「主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し…監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた」のです(創39:21-22)。それは、ヨセフが何をしても、主がそれを成功させてくださったからでした(23節)。しかし、神のご臨在と御恵みにもかかわらず、ヨセフは長年獄中にいました。
あなたは今、病院や刑務所、故郷から遠く離れた土地にいて途方に暮れているでしょうか。あるいは、自分の殻に閉じこもって、どうにもならなくなっているかもしれません。けれども、あなたがどこにいようと、また、どれだけ長くそこにいたとしても、神のあわれみはあなたに届きます。なぜなら、神は、全能であられ(出6:3)、天にも地にも満ちておられ(エレ23:23-24)るからです。誰も助けてくれない、と思われる時も、あなたを守り、前進させ、必要を満たしてくださいます。
行ないによって
ある牧師が夜、教会に向かって歩いていると、銃を持った強盗に襲われました。命が惜しければ金を出せと言われて、財布を差し出そうとポケットに手を入れたとき、強盗は、つめ襟の牧師服に気づいて、「あんた牧師だったのか。だったら金はいらない。行ってくれ」と言いました。牧師は、強盗の思いがけない態度に驚いて、チョコバーを1本差し出しました。すると、「いいや、結構だ。俺は受難節のあいだは、甘い物を絶つことにしている」と言ったのです。
この男は受難節には何かを犠牲にするということで甘い物を絶っていましたが、強盗で暮らしを立てているのですから、それが彼の本性です。神を畏れているとは言えません。
箴言の著者によれば、その人の行いが、その人の人格を計る最も正確な指標です。「自分は神を敬っている」と言うなら、その人の行動がその言葉と一致していなければなりません(箴20:11)。これは、イエスの時代の宗教指導者にも当てはまることでした。イエスは、パリサイ人を非難されました。自分たちの罪を認めようとせず、見せかけの敬虔に終始していることを暴露されたのです(マタ23:13-36)。
人の外見や言葉は、当てになるとは限りません。人格を判断するには、その人の行動を見るのが一番です。この事実は、私たち全てに当てはまります。
主イエスに従う者は、主に対する愛を口先だけではなくて行動によって表します。神が愛してくださったので、私たちは自分を神にささげます。その献身が、今日、私たちの行動を通して明らかになりますように。
レッドテープ
英語に「レッドテープ」という言い回しがあります。「お役所仕事」という意味で、官僚的で、いらいらするほど物事がはかどらない様子を表します。その語源は、かつて役所では公文書を赤いリボンで結んでいたことにあります。1800年代の初期、スコットランド人の歴史家トーマス・カーライルが、行政ののろのろした対応に抗議するエッセイの中でこの言葉を使い、一躍有名になりました。また、アメリカ南北戦争の後、帰還兵がなかなか保障を受けられないという問題が起こり、「レッドテープ」という言葉が再浮上しました。これは、何かをしようとしたとき、厄介な障害が立ちはだかって、焦燥や失望を引き起こすことを意味しています。
レッドテープ(お役所仕事)は世の語り草ですが、この世に一カ所だけ、それがない所があります。それは神の王座です。ローマ人への手紙5章2節で使徒パウロは、「キリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた」と述べています。悲しみに打ちひしがれたり、心が騒いだりして、私たちが神のみもとに駆け寄ろうとするとき、その邪魔をするレッドテープはありません。なぜなら、イエス・キリストが私たちのために道を備えて、天の御座に近づくことができるようにしてくださったからです(ヘブ 4:16)。
忘れないでください。心が傷ついて苦しいとき、神に助けを求めるために数々の障害を乗り越えなければならない、などということはありません。キリストによって、私たちは今すぐ、そして完全に、神にアクセスできるのです。