古き良き時代
私たちは時々、「古き良き時代」を懐かしく思い出します。しかし中には、過ぎた日の思い出は辛い記憶でしかないという人もいるでしょう。眠れぬ夜の闇の中、過去の失敗や失望、叶わなかった夢などがよみがえってきて、人生が自分にひどい仕打ちをしたのだと思い出してしまいます。
過去を思い出すときは、ダビデに倣ってみませんか。神の良くしてくださったことに思いを巡らし、じっくり考えるのがよいでしょう。ダビデは、「あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています」と述べています(詩篇143:5)。神の慈しみを思い出そうとするなら、ずっと以前から主の恵みを受けてきたことに気付きます。このような記憶は最良のものを育てます。さらに深く神を求めたり、今以上に神に取り扱っていただきたいと真摯に求める気持ちを呼び起こします。このようにして過去を思い出すなら、それは神を良く知り、神と深く交わる機会となるのです。
ある老婦人が、ロッキングチェアに座って両手を膝の上で組み、何時間も遠くを見つめていたそうです。ある日娘が尋ねました。「お母さん、静かに座って何を考えているの?」すると、彼女は目をきらりと輝かせて、静かに答えました。「それはね、イエスさまと私との秘密よ。」
私たちの思い出や黙想が、私たちを主のみもとに引き寄せてくれますように。私はそう祈ります。
栄光を受ける準備
牧師であり聖書の解説者であったマーティン・ロイドジョンズは、1981年3月1日、死の床にありました。彼は1939年から1968年まで、ロンドンのウェストミンスター・チャペルの牧師として仕えました。人生が終わりに近づいたとき、彼は話す能力を失っていました。そこで、これ以上自分の回復のために祈って欲しくないと知らせるため、「栄光に向かっていく私を、どうか引きとめないで」と紙に書いたのです。
人の命は大切ですし、この世を去って天国に行く家族や友人を見送るのは辛いものです。しかし、神は、いつ誰を御国に呼び寄せるか、決めておられます。詩篇116篇15節は「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」と語ります。
自分の死が近いと知ったとき、使徒パウロは、天国で自分を待っているものに励まされ、次のように述べました。「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」(Ⅱテモ4:8)。
私たちが今、人生の旅のどこにいたとしても、終着駅は主のみもとです。聖書は「実はそのほうが、はるかにまさっています」と語ります(ピリ1:23)。このみことばは、逆境に自信を持って立ち向かう助けとなります。また、キリストが準備された栄光の家に向けて旅立とうとする人たちを見送らなければならないとき、私たちの心を慰めてくれます。
困難
昨年は「やれやれ」という気持ちで年の瀬を迎えました。あまりにもたくさんの悲しみ、病、そして嘆きが、その一年にあったからです。「来年こそ良い年に…」と、新年に期待していました。しかし、年が明けると、次から次へと悲しい知らせが舞い込みました。何人かの友人が両親を亡くし、叔父は就寝中に帰らぬ人になりました。癌になった友人も幾人かおり、同僚の弟と友人の息子は、どちらも突然の悲劇で命を落としました。良い年どころか、新しい年は悲しみの大波が打ち寄せて来たようでした。
ヨハネ16章33節には「あなたがたは、世にあっては、患難があります」と記されています。神の子どもたちにも、健康で裕福で気楽な人生が約束されているわけではありません。しかし、困難の中にあっても、私たちはひとりぼっちではありません。イザヤ43章2節は、私たちが深い水の中を通り過ぎるときも、神は共にいてくださると語ります。自分に与えられた試練に神のどんな目的があるのか、常に理解できる訳ではありませんが、私たちは神の心を信頼することができます。なぜなら、神を知っているからです。私たちの神は、愛に富んだお方で、「死も、いのちも、…今あるものも、後に来るものも、…私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ロマ8:38-39)。困難にあっても、神のご臨在は神の約束です。
幸せバイキング
ファミリーレストランのテレビ広告で「当店で幸せバイキングを!」と宣伝しているのを見ました。フライドポテトやパスタやグラタン、サラダやケーキをファミリーレストランで食べるだけで幸せになれるなら、何と手軽なことでしょう。しかし残念ながら、そのように約束できるレストランはひとつもありません。
幸せをつかむことはなかなかできないと、人生が教えてくれます。もちろん、食べ物や他の物が手に入ることも幸せには違いありませんが、いずれはそれが当たり前になって、次の「幸せ探し」が始まります。それはおそらく、手に入れたものが、心の奥底から必要なものではなかったからでしょう。幸せになろうと、ちょっとした気晴らしや娯楽を求めて、それが手に入ったところで「助けて欲しい」とか「希望がほしい」という心の叫びには応えてくれません。それゆえ、詩篇の作者は「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は」と語り、幸せになる最良の方法を示してくれます(詩146:5)。
主のうちに幸せを求めるなら、あなたは大丈夫です。主と主の計らいに自らを委ねた時にだけ、私たちは探し求めていた幸せを見つけるからです。助けや希望は、主を信頼して初めて手にすることができます。
涙の道
アメリカ史上に残る悲惨な出来事として、19世紀初期に行われた先住民の強制大移住が挙げられます。当時、急速に増加する白人たちと数々の条約を結び、アメリカ独立革命をともに戦った先住民たちが、先祖伝来の地から追放されました。1838年の冬、チェロキー族は「涙の道」として知られる1,600キロメートルもの道を西に向かって歩かされました。
希望が必要
アダムとエバに希望は必要ありませんでした。満たされていないものは何もなかったからです。また、神がすべての良いものを与えてくださっている環境の中で、その快適な生活がずっと続くと考えるのも、至極当然でした。しかし、神はあるものを独り占めしていると蛇に吹き込まれ、それを欲しがったために、すべてのものを失う危機が訪れました。
移動図書館
ゲーム機などができる前、私の少年時代のことです。長い夏休みには、毎週やってくる移動図書館が楽しみでしかたありませんでした。地域の図書館になかなか行けない人たちのために、本棚にぎっしり本を詰め込んでやってくるバスです。この移動図書館のおかげで、たくさんの本を読んで夏を楽しく過ごせました。今でも、この移動図書館が私を読書好きにしてくれたと感謝しています。
恐れが忍び寄るとき
娘が「ママ、虫!」と叫んだので、娘の指差す方を見ると、ペットショップ以外では見たこともないほど大きなクモがいました。私はもちろんですが、クモもこの家にいてはいけないと悟ったようでした。張り詰めた空気の中でクモと向かい合ったまま、私は身動きひとつできませんでした。脈が速くなるのを感じ、息を呑んで、大丈夫だと自分に言い聞かせました。それでも恐怖で凍りついたように、じっとしていました。
見捨てられない
ある日、カリッサ・スミスは地元の図書館にいました。可愛い声を出し始めた4ヶ月の娘と一緒です。不意に、年配の男性が「赤ん坊を黙らせろ、さもないとわしが黙らせる」とすごんできました。スミスは毅然(きぜん)と答えました。「機嫌のよい赤ちゃんに腹を立てるとは、ご事情があるのかもしれませんね。けれども、私は娘を無理に黙らせようとは思いませんし、あなたにもそうはさせません。」