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加えても省いてもいけない

私たちは聖書のメッセージの扱い方をいとも簡単に間違えてしまうと、最近読んだ本に書かれていました。私たちは、神が語っておられるメッセージを汲み取ろ うとするより、自分の意見を後押しするために聖書を用いようとしがちです。ある人たちは、聖書を用いてあることを「是」としますが、別の人たちは、聖書を 用いてその同じことを「否」とします。つまり、双方とも自論の根拠に聖書を用いますが、どちらも正しいはずはありません。

神のことばを用いるときに大切なのは、聖書が語っていることに付け加えたり、省いたりしないことです。みことばの扱い方を誤るなら、みことばを誤っ て伝え、ひいては、間違った神の姿を伝えることになります。ですから、パウロは「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き 手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい」とテモテに言ったのです(Ⅱテモ2:15 新共同訳)。「キリストのために働いている」と言っても恥ずかしくない認められた働き人にとって、優先すべきことは何でしょう。それは、神のことばを正し く解釈する(正しく伝える)ことです。聖書を学ぶときは、聖霊に頼りましょう。聖霊は神の霊ですから、神の霊感によって書かれたみことばを私たちが理解 し、知恵を得られるよう助けてくれます。

私たちには、自らの言動によって神のみことばを伝える機会が与えられています。どうかその時、純粋に神のみこころを映し出すことができますように。これは、クリスチャンにとって人生最大の特権のひとつです。

谷間の道先案内

必ず天国に行けるのだから、死ぬのは怖くない。怖いのは死ぬまでの苦しみだ、と言う人がいます。もちろん、クリスチャンは天国に行くことを待ち望んでいま す。しかし、死ぬのが怖いとも思っているのです。それを恥ずかしがる必要はありません。痛みや苦しみ、家族との別れに不安を感じたり、遺族が経済的に困る のではないかとか、やり残したことを後悔するかもしれないと恐れるのは自然なことです。

なぜ、クリスチャンは死を恐れなくてもいいのでしょうか。それは、イエスが墓からよみがえられ、キリストを信じる私たちもよみがえるからです。です から、使徒パウロは「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与 えてくださいました」と宣言しているのです(Ⅰコリ15:56-57)。

死にゆく過程そのものが、道先案内役です。私たちはそれに先導されて、神とともに生きる永遠に入れられていきます。神のみことばにあるように、「死 の陰の谷を歩く」とき、神はともにおられます。私たちは、「あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」(詩 23:4)と言うことができます。暗い谷間を通り抜け、「主の家」に着くときまで、主が慰め、導いてくださいます。そして、主とともに永遠に「主の家」に 住むのです(6節)。

フェンスから教えられたこと

我が家を囲むフェンスが3月の突風で吹き倒されました。ほんの数ヶ月前に新しくしたばかりだったので、業者の腕が悪かったのだと思いました。しかし、よく 考えてみると、悪いのは私でした。私はそれがもうすぐ仕上がるというとき、支柱まで取り替えてコンクリートで補強するほどの必要はないと考えました。それ で、「今ある支柱にフェンスを取りつけてください。それで大丈夫です」と言いました。確かに、風が吹くまでは大丈夫でした。

イエスは、硬い土台の上に人生を築くことの重要性を強調されました。しっかりした土台とは、神のみことばに従うことです。

主イエスは言われました。「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降っ て洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いて それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます」(マタ7:24-26)。雨風が打ちつけると、岩の上に建てられた家 だけが倒れずに残りました。神のみことばを聞くことは不可欠です。しかし、神のみことばを行うことは、人生の嵐を切り抜ける鍵です。今からでも遅すぎませ ん。岩の上に家を建てましょう。

コーンパレス

サウスダコタ州のミッチェル市にあるコーンパレスは毎年、美しい壁画を展示します。そこに描かれているのは、空の鳥や西部開拓時代の幌馬車、アメリカ先住 民の住居や田園風景などです。しかし、この壁画には非常にユニークな特徴があります。それは、その材料が、とうもろこしや穀物の種、そして草だということ です。屋外の壁画は毎年、新しいテーマで作り変えられます。その理由のひとつは、おなかをすかせた鳥が、壁画を食べてしまうためです。

イエスは鳥と種のたとえ話を語られました。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来 て食べてしまった」(マコ4:3-4)。また別の種は、岩地やいばらの中に落ちてしまい、実を結びませんでした(5-7節)。しかし、良い地に落ちた種 は、多くの実を結んだのです(8節)。

イエスの説明によると、人々が道ばたでみことばを聞くと、「すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまう」のです(15節)。サタ ンは福音が大嫌いで、人が福音を信じることを何とかして妨げようとします。福音を聞いた人が、ずるずる決心を先延ばしにしたり、聞いたことをすぐ忘れるよ うに、サタンはこっそりと巧みに働きます。これに対抗するためには、福音を伝えると同時に、収穫の主が、神のみことばを受容力のある心に根付かせてくださ るように祈らなくてはなりません。

動いている教会

金婚式の記念に妻のシャーリーと、ノルウェーのフィヨルドめぐりのクルーズに出かけました。船は北上しながら、さまざまな町や村に立ち寄りました。私たち はそこで、いろいろな教会を訪ねました。その中に12世紀に建てられた教会がありましたが、ガイドは「今でも動いている教会ですよ」と誇らしげに案内しま した。私は、「どういう意味ですか」と尋ねると、彼女は次のように答えました。ノルウエーでは国教の時代、牧師は国から任命されて赴任し、給与を受け取っ ていましたが、教会の人々はまったく礼拝に行かない、ということがめずらしくありませんでした。ところが、この教会の信徒たちは千年にわたって忠実に礼拝 し、活発に主に仕えてきたといいます。

私はすぐに、黙示録2章と3章に書かれている七つの教会を思い浮かべました。主イエスは、「わたしは、あなたの行いを知っている」(黙2:2、9、13、19; 3:1、8、15)とおっしゃいました。

使徒パウロもまた「信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐」(Ⅰテサ1:3)について、テサロニケの教会を褒めています。

私が集っている教会も130年以上、忠実に聖書のメッセージを語り、教会員の世話をし、地域に仕えてきました。まさに「動いている教会」です。ともに成長し、ともに主に仕えることができる地域の教会の一員になることができるなら、それは何と素晴らしい特権でしょう。

パニックか祈りか

修道院のエレベーターに、85歳の女性が3日間閉じ込められてしまいました。幸いなことに、彼女は水差しに入った水とセロリ、そして数粒ののど飴を持って いました。彼女は、エレベーターのドアを開けて携帯電話の電波を得ることができないと分かると、神に祈ることにしました。不安の中でも神を信じ、救出され るときを待ちました。彼女は、CNNのインタビューに答えて言いました。「パニックになるか、祈るかの二者択一でした。」

百万人ものクシュ人の軍が攻撃してきたとき、アサ王もパニックか祈りかという選択を迫られました(Ⅱ歴14章)。彼はこの大軍に対して、恐れおのの くことも、自らの戦略に頼ることもしませんでした。彼は、ただ主に向かって、緊急事態の祈りをささげました。「私たちの神、主よ。私たちを助けてくださ い。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります」と祈りました(11節)。アサは主だけが頼りであることを告白し、助けを求め、主の御 名が守られるようにと訴えました。それは心砕かれた者の必死の祈りでした。主はアサの祈りを聞かれ、アサはクシュ人の軍に勝利しました。

困難な状況に見舞われ立ち向かう力もなく、山積する問題に行き詰まったなら、パニックになるのではなく、神に頼りましょう。神はご自分の民のために戦い、勝利されます。

イエスは近くに

サムエル(4歳)は、晩ごはんを食べ終えると、「向こうにいってもいい?」と尋ねました。外で遊びたかったのです。しかし、ひとりで外に出るには幼すぎる ので、母親は「だめよ。ひとりでお外に行ってはいけないの。ごはんを食べ終わったら、ママが一緒に行ってあげるから待っていなさい」と言いました。する と、サムエルは、すかさず言いました。「でもママ、イエスさまがぼくと一緒にいるよ。」

サムエルは、主がいつもそばにいてくださることを、両親に教えてもらっていました。今日の聖書のみことばでは、ヤコブも同じ教訓を学んでいたことが わかります。父イサクはヤコブを祝福して、母の親戚の中から妻をめとるように告げました(創28:1-4)。ヤコブは父の指示に従い、ハランを目指して旅 立ちました。

ある夜、ヤコブが寝ていると主が夢に現れ、「わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、…決してあなたを捨てない」と言 われました(15節)。ヤコブは目覚めて、あれは神のみことばだったと気付き、「まことに主がこの所におられる」と言いました(16節)。そして、神がと もにいてくださることを確信し、神に従って人生を歩もうと決心しました(20-21節)。

イエスを自らの救い主として心に迎えたならば(ヨハ1:12)、神は常にその人とともにいてくださいます。私たちはその真理を確信し、その真理に慰められます(ヘブ13:5)。私たちもヤコブのように、真心からの献身で神に応答できますように。

今も神の御手の中に

神学大学院に入学して新しくできた友人が、自分の話をしてくれました。夫は家族を捨てて出ていき、彼女は働きながらふたりの幼い子どもを育てていました。 最低賃金ぎりぎりの給与しかもらえない仕事をしていたので、家賃の安い、治安の悪い地域で暮らすことを余儀なくされていました。

私にも子どもがいたので、彼女に同情して尋ねました。「それで、子どもたちはどうしているの?」すると、彼女は答えました。「自分にできることはき ちんとして、神の御手の中に子どもたちを託しているのよ。」試練の真っただ中にあって、神を信頼している彼女の姿は、ヨブの姿を思い起こさせました(ヨブ 1:6-22)。

一年後、彼女から電話があり、今から一緒に葬儀場に行ってくれないかと言います。彼女の息子が、走行中の車から無差別に発砲された銃弾に当たって、 亡くなったのです。私は「彼女を慰める言葉を与えてください。説明できないものを説明しようとしませんように」と、神の知恵を祈りました。

あの日、彼女の傍らにいて再び驚かされたのは、他の人たちを慰める彼女の姿でした。神への堅い信頼は、このようなひどいことが起こっても、揺るがさ れませんでした。彼女は別れ際に、こう語りました。「私の息子は、今も神の御手の中にいるわ。」深い信仰を物語る、印象的な言葉でした。ヨブのように「罪 を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった」のです(22節)。
私たちも日々主とともに歩むことによって、揺るがない信仰を育てることができます。

ハードルを超える

娘のデビーは幼い頃、バレエを習っていましたが、ある日、丸めたマットを跳び越える練習がありました。一回目は、マットに跳ね返されて失敗でした。デビー は呆然と床に座り込み、次の瞬間、泣き出してしまいました。私は飛んでいって彼女を起こし、大丈夫だよと言いました。そして、上手に跳び越えられるように なるまで、手をつないで一緒に走りました。デビーには、私の励ましが必要でした。

マルコとも呼ばれるヨハネは、バルナバとパウロの第一次伝道旅行に同行して奉仕する中、大きなハードルにぶち当たり、脱落してしまいました。バルナ バは、第二次伝道旅行にもマルコを連れて行こうとしましたが、パウロは反対しました。バルナバは、マルコにやり直しのチャンスを与えたかったのですが、パ ウロの目にマルコはお荷物でした。ついにふたりは別々の伝道旅行をすることになり、バルナバはマルコを連れて出かけました(使15:36-39)。

聖書は、マルコがバルナバの助けを借りて、どのように自らのハードルを超えていったか、何も記していません。しかし、彼は頭角を現していったに違いありません。マルコは「私の務めのために役に立つからです」と、後にパウロが書いているからです(Ⅱテモ4:11)。

失敗をして苦闘しているクリスチャンを見たら、助けてあげましょう。ハードルを越えるためにあなたの助けを必要としている人はいませんか。