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切望の石

ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアは「ああ、すべての埠頭は切望の石」と書きました。船は出て行き、埠頭は別離とあこがれを胸に立ち続けます。私たちは、失ったもの、手の届かないものを思って悲しみます。ポルトガル語の「切望」は、望郷の痛みを意味します。詩人はその切なさを記したのです。

涙の海

マサチューセッツ州ボストンに「涙の海を渡る」という銘板がありますが、これは1845年から数年続いたアイルランドのジャガイモ飢饉の際に、勇敢に大西洋を渡った人たちを記念しています。この災害で100万人以上の人々が亡くなり、更に100万人以上の人々が故郷を捨て、海を渡りました。この状況をジョン・ボイル・オライリーが「涙の海」と詩的に名づけました。彼らは、飢餓と苦悩に追い立てられながら、必死に希望を求めたのです。

愛と平安

深い悲しみの中にいても、言葉では説明できない平安で心が満たされることに驚かされます(ピリ4:7)。それを父の葬儀で体験しました。弔問客が長い列を作り挨拶して通り過ぎる中、高校時代の友人の顔が見え、ホッとしました。彼は黙ってハグをしてくれました。辛く悲しい一日の中で、心が平安で満たされていくのを感じ、決してひとりではないと元気づけられました。

ふさわしい時期

昨日、大学に入学する長女のためにネットで航空券を購入しましたが、画面を見る目が涙でうるみました。娘と過ごした楽しい18年間を振り返ると、彼女のいない生活はどれほど寂しいだろうと悲しくなります。けれども、前途洋々たる娘の未来を取り上げてはいけません。大人への第一歩を踏み出す節目にあたって、実家を離れ、知らない土地に行くのはふさわしいことだと思います。

悲しみのトンネル

親友を交通事故で亡くしたのは19歳のときでした。それから数か月間、悲嘆にくれて生きていました。前途洋々とした年若い友を失った心の痛みで、周りのことが目に入らないこともありました。辛くて悲しくて、神さえ見えなくなりました。

それでも希望がある

デイリーブレッドに1988年以来、多くのデボーションエッセーを書いていますが、忘れられないものがいくつかあります。ひとつは90年代半ば、娘3人がバイブルキャンプや宣教旅行などに行き、6歳の息子とふたりで空港見学に行った話です。息子は振り向いて「メリッサがいないとあまり楽しくないね」と言いました。二歳年上の姉で彼の相棒です。

どこにでもいて、どこにもいない

友人は私たち夫婦と同じく10代の娘を交通事故で亡くしました。彼女は娘リンジーを思う気持ちを地元紙に投稿しました。彼女は家中にリンジーの写真や思い出の品を置いていると述べた後「彼女は家中にいます。それなのにどこにもいないのです」と記しました。

永続する希望

クリスマスを1週間後に控えていましたが、何もする気には、なれません。2カ月前に母が亡くなったのです。夫が慰めても心が動かず、家族や親戚にとって信仰の柱だった母を失った悲しみに暮れていました。その朝、息子のザビエルは背伸びをして室内のイルミネーションを壁に留めました。そして何も言わずにスイッチを入れると、夫と一緒に出勤して行きました。

力強い赤ちゃん

その赤ちゃんは眠っているように見えましたが、イエスの御腕に抱かれるまで決して目覚めることはありません。彼は数か月間、必死で生きようとしましたが、息子の死を告げる母親の悲痛なメールが届きました。「深い悲しみで、心がうめいています。神は、あの子の小さな命を通して、私たちの心に愛の御業を深く刻んでくださいました。力強い命でした。」