鏡よ鏡!
自分の姿をどれくらい鏡に映して見ますか。あるリサーチによると、一日平均8回から10回程度だそうです。しかし、別の調査では、店のショーウインドーやスマートフォンに映る姿をちらりと見ることも含めると、一日に60回から70回にもなるといいます。
置き去りにする
息子が18歳になって運転免許を取得し、自分ひとりで財布を持って出歩くようになってから一年くらいの間、彼が置き忘れた財布を見つけたという電話が何度もかかってきました。私たちは息子に、財布を置きっぱなしにしないように気をつけなさいと注意しました。
主人に従う
近所で開催されたドッグショーで、トレバーという名のコーギーのパフォーマンスを見ました。トレバーは主人の命令に従って、数メートル走るや否やくるっと向きを変えて戻ってきたり、フェンスを飛び越えたり、嗅覚を用いて何かを当てたりしました。トレバーはひとつの競技が終わると主人の足元に戻ってきて、座って次の指示を待ちました。
盗まれた宝物
トールキンの『ホビットの冒険』は、盗まれた宝物を奪回するために、小人たちが「スマウグ」という獰猛(どうもう)な竜に立ち向かうという話です。恐ろしく危険なミッションであるにもかかわらず、小人の副司令官バーリンはリーダー「トーリン」に対する絶大な信頼を「彼こそが私が従うことのできる人、王と呼ぶことのできる人」と言い表しました。リーダーに対する信頼が、この任務にすべてをささげようという堅い決意を生み出しました。
愛の目
マーク・セーラムを紹介したテレビ番組を見た多くの人が、彼は人の心が読めると言います。ところがセーラム自身は、自分は霊能者ではない、ただ人をよく観察しているだけだと言います。ジェニファー・マルソンのインタビューには、こう答えました。「私たちはほとんど何も見えない世界に住んでいます…その理由は、私たちが周りに注意を払っていないから…私は人が放っているものに敏感なのです」(コロラドスプリング、ガゼット紙)。
水問題
教会堂の建設が始まって、私たち教会員はわくわくしていました。毎週日曜日になると、建設現場に掘られた大きな穴を期待して見ていましたが、工事ははかどっていないようでした。 問題は水でした。水がありすぎる場所と無さすぎる場所があるのです。ひとつは地下水の問題です。会堂予定地の地下に泉が湧き出ていて、この水が適切に外に流れ出すように手当てをしない限り、市から建設許可が下りません。もう一方は水道です。設置が義務づけられているスプリンクラーに十分な水を供給するために、新たな水道管を引き込まなければならないというのです。これらの規定を満たすために工事が遅れるのは困るのですが、規則に従わなければ、後で大問題が起きるかもしれません。
移り気な信奉者たち
世論とはなんと移ろいやすいものでしょう。過越しの祭りのとき、エルサレムに入城したイエスを民衆は喜んで迎え、王にしました(ヨハ12:13)。しかし、その週の終わりには、イエスを十字架につけるようにと求めたのです(19:15)。
この移ろいやすい民衆の中に、私は自分の姿を見ます。私は、勝っているチームを応援するのが好きです。チームが負け出すと、私の気持ちも離れていきます。新しくて刺激的な動きがあると、それにかかわりたいと思います。しかし、熱気が別のものに移っていくと、私の気持ちもそれにつられて移っていきます。私は、イエスが不可能を可能になさっているときは、喜んで主に従います。けれども、イエスに難しいことをするように言われると、尻込みして動くことができません。勝ち馬に乗るようにイエスに従うのはワクワクします。イエスが頭の良い人を出し抜いたり、権力者を打ち負かしたりなさるときにイエスを信頼するのは簡単です(マタ12:10、22:15-46を参照)。しかし、イエスが苦難や犠牲、死について語られると、私は戸惑ってしまうのです。
私は、自分だったら十字架までイエスに従って行っただろうと思いたいのですが、実は、あやしいところです。結局のところ、安全な場所にいてもイエスのために堂々と語れないのですから、大勢の敵に囲まれたら、いったい何ができるでしょう。
私は本当にイエスに感謝しています。こんな移り気な信奉者たちのために、イエスは死んでくださいました。そのことがあったので、私たちは、献身的な弟子になっていけるのです。
行ないによって
ある牧師が夜、教会に向かって歩いていると、銃を持った強盗に襲われました。命が惜しければ金を出せと言われて、財布を差し出そうとポケットに手を入れたとき、強盗は、つめ襟の牧師服に気づいて、「あんた牧師だったのか。だったら金はいらない。行ってくれ」と言いました。牧師は、強盗の思いがけない態度に驚いて、チョコバーを1本差し出しました。すると、「いいや、結構だ。俺は受難節のあいだは、甘い物を絶つことにしている」と言ったのです。
この男は受難節には何かを犠牲にするということで甘い物を絶っていましたが、強盗で暮らしを立てているのですから、それが彼の本性です。神を畏れているとは言えません。
箴言の著者によれば、その人の行いが、その人の人格を計る最も正確な指標です。「自分は神を敬っている」と言うなら、その人の行動がその言葉と一致していなければなりません(箴20:11)。これは、イエスの時代の宗教指導者にも当てはまることでした。イエスは、パリサイ人を非難されました。自分たちの罪を認めようとせず、見せかけの敬虔に終始していることを暴露されたのです(マタ23:13-36)。
人の外見や言葉は、当てになるとは限りません。人格を判断するには、その人の行動を見るのが一番です。この事実は、私たち全てに当てはまります。
主イエスに従う者は、主に対する愛を口先だけではなくて行動によって表します。神が愛してくださったので、私たちは自分を神にささげます。その献身が、今日、私たちの行動を通して明らかになりますように。