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気難しい人々

著書「被告席に立つ神」の中でC.S.ルイスは、うまく付き合うのが難しいのはどういう人たちなのかについて語ります。自己中心、怒りっぽい、嫉妬深いなど、ねじれた性質が良好な人間関係を阻害します。私たちは時々、こういう難しい人たちと争わなくてよいならば人生はもっと楽なのに、と思います。

長丁場に備えて

米国で2006年に千人以上の成人を対象に行われた調査によると、ほとんどの人が17分以上行列に並ぶことに耐えられず、9分以上の電話の保留にも耐えられないそうです。

最後まで忠実に

英国のサロモン・キールダー・マラソン大会での出来事です。ある選手が32キロメートル地点まで走ったところで、コースをはずれてバスに乗りました。そしてゴール近くの森まで行くと、そこからレースに戻り、なんと3位に入賞しました。その選手は後に大会関係者に尋問され、疲れたからやったと答えたそうです。

キリストを信じる信仰というレースを走る私たちには、疲れきった運動選手の気持ちが痛いほど分かります。ヘブル人への手紙は、「私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」と、私たちを叱咤激励します(ヘブ12:1)。忍耐して走るためには、立ちふさがる罪を避け、後ろに引き戻そうとする重荷を捨てなければなりません。迫害の中を前進しなくてはならない場合さえあります(Ⅱテモ3:12)。

聖書は、疲れきって気力が失せ果ててしまわないように(ヘブ12:3)、キリストに焦点を合わせて集中しなさいと、私たちに促しています。私たちが、自分の問題に夢中になるのでなく、もっと主イエスに注意を払うならば、私たちは伴走してくださっているイエスに気づきます。このお方は、私たちがつまずく時には支え(Ⅱコリ12:9)、手本を示しながら励ましてくださいます(Ⅰペテ2:21-24)。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない」(ヘブ12:2)ようにするなら、私たちは力の源にしっかりとつながっていることができます。そして、主に忠実に人生のレースを走り切ることができます。

苦難の岬

キャプテン・クックの名で知られる、英国の冒険家ジェームズ・クックの船は1770年6月10日、オーストラリア北東海岸の沖で座礁しました。彼は船を何とか深みに引き戻しましたが、再び岩礁に乗り上げ、今度は沈没しそうになりました。クックはこの経験について「北の地点を『苦難の岬』と名づける。すべての試練が、ここから始まったからだ」と航海日誌に記しています。

みなさんも、ひとつの問題がきっかけとなって、次から次へと試練に見舞われるという経験をしたことがあるかもしれません。その中には失業、病気、家族の死、不本意な離婚などが含まれていたかもしれません。

しかし、「苦難の岬」のような危機に直面しても、神が主権者であることに変わりなく、神がすべて掌握しておられることに違いはありません。神は試練を用いて私たちの中に抵抗力を養おうとされます。使徒ヤコブは、「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです」と書いています(ヤコ1:2-3)。「忍耐」と訳されている単語は、「留まる力」あるいは「耐える力」という意味です。

人生を一変させるような試練のただ中でも、神が働いておられることを思い出してください。神は、あなたの品性を培うために「苦難の岬」の経験を用いられます。また、そこを無事に通り過ぎるために十分な恵みを賜ることも、約束しておられます(Ⅱコリ12:9)。

待ちなさい

サンフランシスコで車の渋滞に巻き込まれた男性が、しびれを切らして隣の車線に移りました。そして、停車している車の列を追い越して行こうとしました。ところが、この車線は工事中で新しいセメントが敷かれたばかりです。男性のポルシェ911は、セメントの泥にはまって動かなくなってしまいました。彼の短気は非常に高くついたのです。

聖書にも、忍耐できなかったために高い代償を払った王の話があります。イスラエルの王サウルは、ペリシテ人との戦いを目前に控えて、神の祝福を得ようと思いました。ところが、いけにえをささげるはずのサムエルが予定どおりに到着しません。サウルは忍耐することができず、しびれを切らせて神の命令に背いてしまいました(Ⅰサム13:8-9、13)。遅れに我慢できない性格が、サウルを自分は律法以上の者だと勘違いさせました。そして、祭司にしか許されていない奉仕を行ったのです。神の教えに従順でなくても何とかなると思ったのかもしれませんが、それは間違いでした。

到着したサムエルは、サウルの不従順を批判し、その罪のために王国を失うだろうと預言しました(13-14節)。サウルは、神のご計画が実現されていくのを忍耐して待つということを拒絶して急ぎ足で行動し、大きな失敗を犯しました(箴19:2参照)。サウルの忍耐の無さは、彼の不信仰を顕著に現していたのです。

神のみこころの実現を忍耐強く待つなら、主がともにいて導いておられることは明らかにされてきます。

行け!行け!

交差点の反対側に、青信号になってもぐずぐずしている車がありました。どこからともなく、「行け、行け!早く行け!」という大声がします。ところが、その車の運転手は、どなり声に驚いてしまったのでしょう。きょろきょろするばかりで前進しません。そのとき私の目に映ったのは、後方の車についている大きなスピーカーでした。何と、これで運転手を怒鳴りつけていたのです。

捕囚の慰め

1年で聖書を!
◆ イザヤ書40-42
聖書のみことば イザヤ書39:5-40:5
 
慰めよ。慰めよ。わたしの民を―イザヤ書40:1

マサチューセッツ州ランカスターの入植地に暮らす50世帯の人々は、先住民に襲われるかもしれないと恐れていました。1675年2月10日のことです。清教徒牧師のジョセフ・ローランドソンは、村を守って欲しいと政府に懇願するため、妻のメアリーと子どもたちを残してボストンに出向きました。

どんな時でも輝きを

1年で聖書を!
◆ 士師記13-15
聖書のみことば エペソ5:1-10
 
[あなたがたは]主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
―エペソ5:8

正直なところ、もう行くのはうんざりでした。ここ4週間というもの、私たち夫婦は不良品の冷蔵庫を返品して、代金を払い戻してもらおうと苦労していました。再度、売り場責任者と話をしましたが、今日も決着しそうにありません。もうあきらめるしかないのだろうかと思いながら、温和な態度を保とうと務めていました。