誠に申し訳ありません
ニュースは、スポーツ選手が飲酒運転で検挙されたり、政治家が破廉恥な行為を暴露されたりなどという有名人の不祥事が起こると、その事件の内容と本人の謝罪会見などをいち早く報じます。神妙な顔つきで「誠に申し訳ありません」と言っているのを聞いても、本人の心の中は神だけにしか分かりません。本当に反省しているのか、運悪く捕まってしまったと思っているのか、いったいどちらだろうと思ってしまうこともあります。
窓に映るもの
アラスカで休暇を過ごしましたが、移動中の車の窓からたくさんの風景を見ました。暖かく、雨や霧に濡れることもない車内から、美しい景色を見ることができるのは感謝なことです。しかし、窓ガラスには課題もあります。雨が降ると、窓にしたたる水滴で視界がぼやけます。また、気温の変化によって窓の内側に結露ができ、外が見えづらくなるのです。
解放の原則
ゲイル・ブランキは自著「今すぐ50個手放しなさい!」で、「手放しのルール」として、人生から「がらくたの山」を一掃する方法を記しています。最初の原則はこれです。「もし、それを見ると落ち込んだり、ひっかかったり、自分で自分が嫌になったりするなら、それを捨てるなり、誰かにあげるなり、売るなりして、自分の前から消し去りなさい。そして、前進しましょう。」
立ち直る
トリニティー大学のスカッシュチームは大学スポーツ史上最長の252連勝を誇っていましたが、2012年1月18日、エール大学に破れ、この記録に終止符を打ちました。14年ぶりの敗戦の翌朝、コーチのポール・アサイアント氏は、「さあ、切り替えてまた頑張れ」というメールを友人から受け取りました。そのメールを送った有名なアメフトのコーチは10日後、全米で最も人気のスポーツイベント、NFLスーパーボウルで敗北しました。私たちはみんな、それぞれの敗戦に耐えなければなりません。
勝利の叫び
冒険家アーロン・ラルストンの自伝を読みました。彼は単独登山の最中、渓谷の奥深くで落石に遭って腕を挟まれて身動きが取れなくなりました。発見される可能性はほどんど無く、体力も消耗していきます。彼は生き延びるために挟まれた自らの腕をサバイバルナイフで切断する決心をします。耐えがたい痛みの中で、アーロンは苦しみと勝利の叫び声をあげます。アーロンは落石から脱出し、生き延びたのです。
イエスの十字架刑に立ち会った人たちは、イエスが何時間も苦しまれた後、大声で「完了した」と言われてご自分の霊を渡されたのを目撃しました(ヨハ19:30)。イエスの最後の言葉は痛みの嘆きではなく、勝利の叫びでした。イエスは、天の父に遣わされた目的を果たされたのです。
イエスは死なれました。私たちもいずれ死を経験しますが、イエスの死は特別です。私たちの死では決して成し得ないものを達成してくださいました。イエスの死によって、私たちの罪が贖われ、私たちの罪が赦され、私たちに永遠のいのちが与えられました。
「完了した」とは主イエスの勝利の叫びです。イエスを信じることで、私たちは罪の奴隷から解放され、自由といのちを得ました。
クリスチャンは、イエスが犠牲になってくださった日を記念して「グッド・フライデー」と呼んでいます。
健全な言葉
しばらく前、アメリカン・ミュージック・アワード(アメリカ4大音楽賞のひとつ)の授賞式のさなか、あるエミー賞女優が勇敢にも立ち上がり、退場したことがありました。その理由は、式の司会者、賞の贈呈者、またミュージシャンたちが、次から次へと下品でわいせつなコメントや冗談を連発するので、非常に不愉快で失望したためです。その女優は、自尊心と尊厳がわずかでもある人にとって、あのような式に列席させられるのは侮辱以外の何ものでもないと語りました。
下品で不健全な言葉は、使徒パウロの時代においても問題でした。パウロはエペソのクリスチャンに対し、下品なこと、みだらなこと、そしり、恥ずべきことばを取り除くように、と念を押しました(エペ5:8、コロ3:8)。これらは、過去の生活の言葉であり(Ⅰコリ6:9-11)、イエスによって新しい人生が与えられた今の彼らには、ふさわしくないものでした。新しく再生した者の生き方は、健全な言葉によって特徴づけられるべきです。彼らの良質で健全な言葉は、聞く人に恵みを与えます(エペ4:29)。聖霊は、私たちの口を守り、下品なことを言うと叱ってくださり、人の益になる言葉を使えるように助けてくださいます(ヨハ16:7-13)。
私たちは、自分のすべてをもって、神の栄光を映すように召されています。その中には、口から出る言葉も含まれています。私たちの口から出る言葉が、感謝に満ち溢れていますように。そして、他の人に益を与える言葉で満たされていますように。
希望が必要
アダムとエバに希望は必要ありませんでした。満たされていないものは何もなかったからです。また、神がすべての良いものを与えてくださっている環境の中で、その快適な生活がずっと続くと考えるのも、至極当然でした。しかし、神はあるものを独り占めしていると蛇に吹き込まれ、それを欲しがったために、すべてのものを失う危機が訪れました。