Month: 10月 2012

隠すもの

隠したいものがあるなら、マイク・スラッテリーに相談するとよいかもしれません。数年前、ある携帯電話会社が、マイクの所有地にアンテナを立てさせてほしいと話を持ちかけました。そして、景観を守るために、アンテナをやしの木に見せかけると言うのです。しかし、マイクには、より良いアイデアがありました。電波を通すビニールパネル製の、家畜小屋を装った小屋を建てるのです。後に彼はこのアイデアをもとに、美観とセキュリティという観点から、アンテナを隠す建物を作る会社を設立しました。マイクは、家畜小屋には牛も馬もおらず、アンテナだけがあるとは近所の人も気づいていないと確信しているそうです(コロラドスプリングスのガゼット新聞より)。

私たちにも、人に見られないように隠しているものがあります。それは、散らかった物置部屋のような害のないものかもしれませんが、一方で、非常に有害なものを隠しているかもしれません。自らの道徳的もしくは霊的な欠点を直視せず、人どころか神にさえも隠そうとしているかもしれません。

詩篇32篇でダビデは、罪を隠そうとする無益な行為(3-4節)と、本当のことを神に打ち明けて安堵する喜びを記しています。「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」(5節)。

神に自らの罪を告白し、その罪を捨て去るなら、たましいが自由になったと感じます。そして、もう何も隠さなくてよいのだと安心させてくれます。

しっかり立つ

交通量の多い交差点を曲がって登坂に入ろうとしたところ、救急車の姿が坂の上に見えました。こちらに向かって急接近してきます。後続車がクラクションを鳴らして進むよう催促しましたが、救急車が止まるとは思いません。不用意に曲がれば事故を起こすかもしれないので、私はブレーキを踏んだままじっとしていました。

これを霊的に関連づけるなら、他人からのプレッシャーに負けず、しっかり動かずに神だけを信頼しなければならないということです。ソロモン王は、このことに失敗しました。彼は王になったとき、国を治めるために神の知恵を求めました(Ⅰ列3:9)。新しく建てた神殿を献堂したときの祈りは、彼の忠実さをあらわしています(8:23、61)。しかし、彼は道をそれてしまいました。異教の神を礼拝する外国の女性たちと結婚し、彼女たちに影響されて偽りの神々を拝んだのです。聖書は、ソロモンは「主に従い通さなかった」と記しています(Ⅰ列11:1-6、ネヘ13:26)。

今日も、古代の社会と変わりません。私たちは、周りの人たちの影響によって、自分の忠誠心を神と神の真理から別のものに移すように促されるかもしれません。しかし、神に助けていただいて、いのちのことばをしっかり握ることができます(ピリ2:16)。危険な交差点に入りなさいというプレッシャーがあるなら、神のみことばである聖書を学びましょう。神の武具をとり(エペ6:10-18)、聖霊に助けていただきましょう(Ⅰコリ2:10-12)。そして、キリストに従う仲間たちと一緒にしっかりと立ちましょう。

変える

エリザベスの話は、感動的でした。彼女は、マサチューセッツであまりにも屈辱的な経験をしたので、居ても立ってもいられずニュージャージー行きのバスに飛び乗り、恥ずかしさから逃れようとしました。バスの中でも泣き続け、バスが停車したことにさえ気づきませんでした。後ろの席に座っていた知らない人が降車しようと通り過ぎましたが、突然立ち止まり、引き返してエリザベスのところへやってきました。そして、泣いている彼女に「これが必要かもしれないね」と言いながら、聖書を手渡しました。彼の言うとおりでした。けれども、エリザベスに必要なのは、聖書だけではありませんでした。それは、聖書が語るキリストでした。エリザベスは、見知らぬ人のささやかなあわれみの行為によって聖書を手にし、イエスの救いを受け取りました。

イエスは私たちの模範です。マタイ9章には、「…群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」と書かれています(36節)。イエスは、傷ついた人々の痛みや苦しみに気づかれただけでなく、弟子たちにチャレンジを与えられました。滅びゆく世の苦しみや欠乏に応答して、働く人を送り出してくださるように祈りなさいと言われました(38節)。

キリストの模範に従っていくなら、あわれみの心がわき起こり、羊飼いのいない人々の人生を変えてあげたいと行動せずにはいられなくなるでしょう。

遠くから

数十年前にヒットした「ディスタンス」という曲は、平和で調和のとれた世界を夢見ています。

その歌は「遠いところから神様が見てくれている」と語ります。そのとおり、神は私たちを見ておられます。けれども、遠くからではありません。神は今、あなたのいるその部屋に、あなたとともにおられ、無限の愛を込めて、あなたをじっと見つめておられます。

修道院の厨房で長年、皿やなべを洗ったり、他の修道士のはき物を繕いながら深い霊性を育てた有名なブラザー・ローレンス(修道士)を思い出します。彼は、「できるだけ頻繁に神の礼拝者となり、神の神聖な臨在に心を定めます」と記しました。

これは、私たちの使命でもあります。それなのに、私たちはそれを忘れがちです。そこで、神のご臨在を再認識させるものを身近に置くのはどうでしょう。私は、十字架にかかられ、よみがえられたイエスが常に私のとなりにおられることを忘れないために、自分の机の上の棚に古い釘を打ち込みました。私たちのすべきことは「いつも私の前に主を置」くことです(詩16:8)。そうすれば、主は「世の終わりまで」(マタ28:20)私たちとともにおられ、「私たちひとりひとりから遠く離れてはおられ」ない(使17:27)と信じることができます。

忘れないということは、毎日折々に「いつも共にいる」と言ってくださったイエスの約束を思い起こし、「イエスさま、おはようございます」とか、「ありがとうございます」「助けてください!」「愛してます!」と言ったりするくらいの簡単なことなのかもしれません。

タイタニックⅡ号

マーク・ウィルキンソンは、釣りやクルーズをするために約4.9メートルの船を購入しました。彼が迷信深い人でないことは明らかです。なぜなら、1912年、氷山に衝突して沈没した悲劇の豪華客船にちなんで、自分の船をタイタニックⅡ号と命名したからです。タイタニックⅡ号の処女航海は英国のドーセット港を出発し、順調でした。しかし、帰路で浸水トラブルに見舞われます。ウィルキンソンは欄干にしがみつき、救出を待ちました。ウィルキンソンはこう話しました。「とんだ恥をかいてしまったよ。たくさんの人に『氷山にぶつかったの?』と聞かれるので、もうウンザリだ。」トラブルの様子を目撃した人も、「そんなに大きな船ではありませんでした。冷蔵庫の氷にぶつかっても、沈没したかもしれません」と話したそうです。

タイタニックⅡ号の話は気の毒ですが、本物のタイタニック号に関しては、過度の信用の恐ろしさを教えています。タイタニック号の建造者は、この船は絶対に沈まないと自信を持っていました。それは、まったくもって間違いでした。エレミヤは私たちに語ります。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ」(エレ17:5)。

私たちは皆、誰かや何かに頼って安心を求めようとしがちです。私たちは何度教えられなければならないのでしょう。偽りの確信を捨てて神に頼らなくてはならないのです。さて、あなたは神以外の何かを頼っていませんか。

あの人でさえ

家系図をたどっていくと、先祖には娼婦がいて、その人は国家の敵をかくまった上に役人の尋問を嘘でかわしていたということが分かった、と想像してみてください。あなたならどうでしょう。恥ずかしいご先祖さまとして秘密にしますか。それとも、一族の伝説のヒロインとしてスポットライトを当てて賞賛するでしょうか。

ラハブを見てみましょう。もし彼女がヨシュア記2章にしか登場しないなら、私たちは彼女を聖書に登場する他の裏切り者と一緒くたにして、悪者のひとりにしてしまうかもしれません。ところが、彼女の物語はここで終わっていません。マタイ1章5-6節には、彼女がダビデ王の高祖母であることが示されています。つまりラハブは、救い主イエスの家系に連なっています。さらにヘブル11章31節は、ラハブを信仰の人と語り、エリコの陥落(ヨシュア記6:17参照)によって滅びなかったのは、その信仰によるのだと記しています。ヤコブの手紙2章25節は、彼女がイスラエルのスパイを救出したのは立派な信仰の証だと語ります。

神の愛にはびっくりさせられます。神は、評判の悪い人に目を留めて、その人の人生を変えられます。変えられた人生をとおして、神の愛と赦しを明らかに示されます。自分は悪すぎるので赦されないと思っていますか。または、そのように思っている人を知っているなら、ラハブについて読んでください。そして喜んでください。神はラハブでさえ正義のかがり火に変えてくださいました。そういうことならば、私たちにも希望があるはずです。

新鮮な目で見る栄光

ニュース番組「グッド・モーニング・アメリカ」は、毎夏、「アメリカで最も美しい場所」を選ぶ視聴者投票を行います。2011年にはミシガン州のスリーピング・ベア砂丘国立湖岸が選ばれました。私は近くに住んでいるので、大変うれしく思いましたが、国中で一番美しい場所という栄冠を射止めたのが我が家の近所というのは意外でした。それで思い出したのは、私たち夫婦がナイアガラ大瀑布を訪れたときのことです。そばにいた男性が、私たちの典型的な観光客の振る舞いを見て、皮肉っぽく言いました。「大したことないじゃないか。こんなの毎日見ているよ。」

私たちはいとも簡単に自分を取り巻く環境に慣れてしまい、なじみの場所や体験を色あせさせています。初めは嬉しかったにもかかわらずです。神の栄光に取り囲まれていることは明らかなのに、日々の生活の忙しさにかまけて、そこに目がいかないことがあります。その上、神が人生に驚くほど介入してくださることを当たり前のように思います。十字架の死と復活に感激する心を失い、神の子どもとされたありがたさを忘れています。さらに、私たちは神のご臨在を喜ぶことを止めてしまい、創造の御業の美しさを見逃しています。

詩篇の作者は次のように宣言しました。「私は栄光輝くあなたの主権と、あなたの奇しいわざに思いを潜めます」(詩145:5)。何と素晴らしいことでしょう。今日、神の「奇しいわざ」に思いを巡らす時間を取りましょう。そして、神の栄光を新鮮な心で感じましょう。

津波のあとで

― 自然災害に襲われたクリスチャンが、聖書のみことばを通して考えたこと

この冊子の著者アジス・フェルナンド師は、国際的に信望の厚い聖書解説者であり、神学者です。また、スリランカのYouth For Christ (ユース・フォー・クライスト) の総主事でもあり、デイリーブレッド スリランカの理事でもあります。
私は彼を友として、また主にともに仕える同労者として尊敬しています。彼の神に対する愛、家族への愛、同僚への愛、そして伝道している人々に対する愛は、誰の目にも明らかです。
2004 年12 月26 日、彼の愛する母国スリランカを大津波が襲い、壊滅的な被害を与えました。フェルナンド師が神を愛する一市民としてまとめた考えが、ここに書かれています。(A6版 32ページ)

確信を持って祈る ―失望を希望にかえる祈りとは何か―

何かに失望すると、クリスチャンでも祈らなくなります。自分の人生をめちゃくちゃにした人に対して怒りや恨みを感じながら祈るのはむずかしいでしょう。神ご自身に失望させられた、と感じているならなおさらです。

しかし、神は、そんな私たちの気持ちをご存知です。同時に、そのような私たちでも恵みの御座に近づくことができるように、道を備えてくださいました。デービッド・エグナーは、この冊子の中で、神に答えていただけるような祈りができないと嘆いたり、神を信じつづけることができなくなったりした人々に、助けの手を差し伸べています。(A6版 48ページ)