Month: 1月 2013

あなたの神を選べ

ギリシャ神話をテーマにしたオンラインゲームのコマーシャルが目に留まりました。軍隊、神話の神々、英雄、冒険のゲームです。中でも注意を引いたのは、ゲームの始め方です。まず、オンライン登録し、自分の神を選び、そして、自分の帝国を築くという手順です。

何と、「神を選ぶ」のです。コマーシャルではさらりと言っていますが、この世で最も危険な行為の特徴が現れていると思い、私は大きな衝撃を受けました。ゲームの中では、神を選ぶことは大して重要ではないかもしれません。しかし、実生活では、ゆゆしい問題です。その選択次第で、どこで永遠を過ごすかが変わってきます。

イスラエルは、その土地の神々に取り囲まれていました。その中でヨシュアは、あなたの神を選びなさいと、民に言い渡しました。決して安易な気持ちで言ったのではありません。また、自らの決意も述べました。聖書は語ります。「川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える」(ヨシ24:15)。

ヨシュアの時代と同様、現代人にも多くの選択肢があります。しかし、賢明な選択は唯一、真実の神を選ぶことです。ヨシュアは「私と私の家とは、主に仕える」と言いました。これこそ、正しい選択です。

両手を広げて

ベティ・フォード元アメリカ大統領夫人の葬儀で、息子のスティーブンはこう言いました。「母は愛と慰めに満ち、誰よりも先に手を差し伸べてくれる人でした。19年前、アルコールに溺れていたとき、母から最も素晴らしい贈り物をもらいました。それは、どのようにして自分の人生を神に明け渡し、神のあわれみを受け取ればよいのか、という教えです。私は母の腕の中で、自分が帰還した放蕩息子であると感じました。母を通じて神の愛を体験しました。それは素晴らしい贈り物でした。」

ある青年が父親に財産の分け前を求め、放蕩し、不面目にも帰宅したというイエスのたとえ話があります。そこで驚かされるのは、その父の反応です。聖書は語ります。「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」(ルカ15:20)。この父親は、諭したり、罰したりするのではなく、祝宴を催すことで、自らの愛と赦しを息子に表しました。何故でしょう。それは「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかった」からでした(24節)。

スティーブン・フォードは、追悼の辞をこう締めくくりました。「母さん、神が示されたように、みんなを愛してくれてありがとう。父さんと僕たち子ども、そしてアメリカ国民を愛してくれてありがとう。」

大きく両手を広げ、ご自分に立ち返るすべての人を受け入れてくださった神のように、私たちも人を受け入れ、人に親切にできるように、神に助けていただきましょう。

思い出すための歌

うれしいことに、みことばにメロディーをつけた無料のCDが郵送されてきました。何回か聴いたあと、いくつかの旋律が耳に残りました。間もなくすると、詩篇の数節をCDに頼ることなく自分で歌えるようになりました。

音楽は、それがなければ忘れてしまうような言葉や思考を思い出させてくれます。神はモーセに言われました。イスラエルの民は約束の地に入ると神を忘れてしまうだろう(申31:20)。自分たちの神を捨て、偶像に向かい、その結果、わざわいを招くだろう(16-18節)。そうなったときのために歌を作りなさい。歌を作ってイスラエルに教えなさい。以前、自分たちは神と親密であったこと、また、その親しい関係を損なったのは、自分たちの罪であることを思い出すことができるようにしなさい(31:19-22)。たぶん、「主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である」(32:4)という神の品性を、イスラエルの民が思い出すようにしておくことが、最も重要だったのでしょう。

神は今日、何を覚えていて欲しいと、あなたにお望みでしょう。神の力でしょうか。神の神聖さでしょうか。それとも、神の愛、または、神のご誠実でしょうか。神の品性をたたえる賛美歌が心に思い浮かびますか。それを歌ってください。聖書は「詩と賛美と霊の歌とをもって…主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい」と教えています(エペ5:19)。

栄光を受ける準備

牧師であり聖書の解説者であったマーティン・ロイドジョンズは、1981年3月1日、死の床にありました。彼は1939年から1968年まで、ロンドンのウェストミンスター・チャペルの牧師として仕えました。人生が終わりに近づいたとき、彼は話す能力を失っていました。そこで、これ以上自分の回復のために祈って欲しくないと知らせるため、「栄光に向かっていく私を、どうか引きとめないで」と紙に書いたのです。

人の命は大切ですし、この世を去って天国に行く家族や友人を見送るのは辛いものです。しかし、神は、いつ誰を御国に呼び寄せるか、決めておられます。詩篇116篇15節は「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」と語ります。

自分の死が近いと知ったとき、使徒パウロは、天国で自分を待っているものに励まされ、次のように述べました。「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」(Ⅱテモ4:8)。

私たちが今、人生の旅のどこにいたとしても、終着駅は主のみもとです。聖書は「実はそのほうが、はるかにまさっています」と語ります(ピリ1:23)。このみことばは、逆境に自信を持って立ち向かう助けとなります。また、キリストが準備された栄光の家に向けて旅立とうとする人たちを見送らなければならないとき、私たちの心を慰めてくれます。

あなたが必要

オーケストラのリハーサルをしていた指揮者の話があります。オルガンが旋律を美しく奏で、バイオリンが澄んだ音色を響かせました。トランペットが鳴り渡り、ドラムは雷鳴のように響きます。しかし指揮者は、何かが足りないと気づきました。ピッコロです。ピッコロ奏者は集中していなかったので出遅れ、きちんと演奏していないことに気づかれないようにと願っていました。しかし、指揮者はピッコロ奏者に言いました。「一人ひとりが必要なのです。」

これは基本的に、使徒パウロが、コリント人への手紙第一に記したメッセージと同じです(12:4-7)。「キリストのからだ」において、すべてのクリスチャンは重要な役割を担っています。パウロは様々な御霊の賜物を述べ、それらを用いるのは、身体の様々な器官が全体の益のために働くのと同じだと言いました(8-10節)。コリントのクリスチャンは、それぞれに異なった文化的背景、賜物、性格を持っていたでしょうが、同じ御霊に満たされ、同じキリストのからだに属していました。パウロは、身体には弱い器官や目立たない器官があるということにも言及し、その上で、誰かが別の人以上に必要だということではなく、すべてのクリスチャンに役目が与えられていると教えました。

忘れないでください。イエスは、あなたに重要な役目を与えておられます。兄弟姉妹が立て上げられるために、あなたを用いようとなさっています。

困難

昨年は「やれやれ」という気持ちで年の瀬を迎えました。あまりにもたくさんの悲しみ、病、そして嘆きが、その一年にあったからです。「来年こそ良い年に…」と、新年に期待していました。しかし、年が明けると、次から次へと悲しい知らせが舞い込みました。何人かの友人が両親を亡くし、叔父は就寝中に帰らぬ人になりました。癌になった友人も幾人かおり、同僚の弟と友人の息子は、どちらも突然の悲劇で命を落としました。良い年どころか、新しい年は悲しみの大波が打ち寄せて来たようでした。

ヨハネ16章33節には「あなたがたは、世にあっては、患難があります」と記されています。神の子どもたちにも、健康で裕福で気楽な人生が約束されているわけではありません。しかし、困難の中にあっても、私たちはひとりぼっちではありません。イザヤ43章2節は、私たちが深い水の中を通り過ぎるときも、神は共にいてくださると語ります。自分に与えられた試練に神のどんな目的があるのか、常に理解できる訳ではありませんが、私たちは神の心を信頼することができます。なぜなら、神を知っているからです。私たちの神は、愛に富んだお方で、「死も、いのちも、…今あるものも、後に来るものも、…私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ロマ8:38-39)。困難にあっても、神のご臨在は神の約束です。

逆さま

イエスには、「不思議だなあ」と思わされることがいくつもあります。イエスの働きに驚かされたり、当惑させられたりします。それは、イエスの人生に対する教えが、世の常識とは真逆の場合があるからです。

人生の旅が長くなると、大体のことは分かっていると思うようになります。そして、人生の舵取りや物事に対する応答がパターン化してしまいがちです。しかし、イエスは私たちの平凡な日常生活に介入され、新しくてより良い道に導こうと声をかけてくださいます。でも、ご注意ください。「イエスならばこうなさる」という方法は、私たちに大きなチャレンジを与えます。

いのちを得るために死ぬ(マコ8:35)、得るには与えよ(マタ19:21)、悲しむ人は幸いだ(5:4)、治めるには仕えよ(ルカ22:26)、苦しみには目的がある(5:10-11)という逆説的なことばについて考えてください。キリストはおかしい、ずれている、と思われるのは、こうした発言があるからです。しかし、ずれているのは、実は私たちです。キリストが逆さまなのではなく、私たちがそうなのです。私たちは、何がベストかは親より自分のほうが分かっている、と思っている子どもに似ています。

神が私たちに「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ」と言われました(イザ55:8)。ですから、私たちの直感は頼りになりません。神の方法に倣えるよう助けてください、と祈りましょう。

祈りの力

妹が癌だと聞いたとき、祈って欲しいと友人に頼みました。手術のときは、癌がすべて取り除かれ、化学療法や放射線療法を受けずにすむように、と祈りました。神は、その祈りに「イエス」と答えてくださいました。手術の成功を友人たちに伝えると、ある人は「まあ、うれしい!祈りの力ね」と言ったのですが、私は「神が私たちの祈りに今回は『イエス』と言ってくださって感謝だわ」と答えました。

ヤコブは「義人の祈りは働くと、大きな力があります」と語りました(5:16)。しかし、「働くと、大きな力がある」というのは、熱心に祈れば祈るほど、あるいは祈ってくださいと頼んだ人が多ければ多いほど、その祈りはきかれるということでしょうか。私は今までに、「だめです」とか「しばらく待ちなさい」と神に言われたことが何度もありましたから、この考え方には疑問を感じます。

祈りには力がありますが、その力は不思議な力です。私たちは信じなさい、と教えられました。大胆かつ熱心に、そして辛抱強く祈り、最後には、神のご決断に従いなさいと教えられました。知者である神が答えられたので、それが最善の答えです。「あなたの気持ちを話しなさい」と神が言ってくださること自体が感謝ですし、祈りの答えが何であれ、神が良いお方であることに変わりはありません。

私はオー・ハレスビーの言葉が好きです。「祈りと無力さは切り離すことができません。無力な人だけが本当に祈ることができるのです。…無力さから出る祈りこそが最高の祈りです。」自分が無力であることを認めましょう。

神の優しさを

厳しい不景気のさなか、私は、失業中のクリスチャンが互いをサポートする自助グループを立ち上げました。履歴書の相互チェック、求人情報ネットワーク網、祈りによるサポートなどがその内容です。そんな中、ひとつの問題が浮上しました。自分が就職すると、もう関係ないとばかりに、自助グループに参加しなくなる人がほとんどだということです。そのため、なかなか就職できない人たちは、むしろ孤独感を募らせたのです。

さらに悪いことは、失業を経験したことのない人の言葉でした。「もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの義の住まいを回復される」(ヨブ8:6)と、友だちが苦しんでいるヨブに告げたときと同じように責めました。ヨブは、「安らかだと思っている者は衰えている者をさげすみ」(ヨブ12:5)と自分の気持ちを表しましたが、現代の社会で求職中の人たちもおそらく共感するでしょう。

人生が大した問題もなく進んでいる人はともすると、自分は苦境にある人たちよりも優れているとか、神に愛されていると思いがちです。この失われた世界の影響は、いつ、誰のところにやって来るか分からない、ということを忘れてしまうのです。

私たちは、状況が良くても悪くても、みんな神に愛されています。また、状況が良くても悪くても、私たちはみんな、神が必要です。自分に与えられた成功や富、または社会的地位は、困っている人たちを助け励ますツールなのです。