Month: 1月 2018

雪のように白く

昨年12月、私たち家族は山岳地に行きました。私たちは常夏の地域で生まれ育ち暮らしてきたので、本物の雪を見たのは生涯初めての体験でした。地面に積もった白い雪を見ながら、夫が「『さあ、来たれ。論じ合おう』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる』」(イザ1:18)のみことばを口にしました。

すぐに駆け付ける

母が癌だと言われたとき夫は職場にいました。それで伝言を残して友人や親戚に電話をしました。しかし誰もいません。震える手で顔をおおい泣きました。「主よ、助けて下さい」すると「私はここにいる」と返事があったように感じ、孤独な瞬間でさえ、慰めがありました。夫が帰宅し、親戚や友人が心配して連絡してきてくれたのはありがたいことでした。しかし、ひとりで悲しみに耐えていたときに神の臨在を感じたことで、私は、いつどこで助けを求めても、神は必ずすぐにそばにいてくださると確信しました。

愛は耳を傾ける

聖書のみことば:詩篇119:145-152

あなたの恵みによって私の声を聞いてください。—詩篇119:149

愛している人の話には耳を傾けます。もちろん、何を言いたいのかを本当に理解するには時間がかかり努力が必要です。しかしそうすることで、その人を心から思っていることや気持ちを尊重していることが伝わります。

作家のウェイン・アルダーソンは、ある若い牧師の話をしています。彼は、多くの時間を費やして教会員の悩みを聞いてあげていました。ある日、帰宅すると、妻に尋ねました。「今日はどんな一日だった?」すると妻は30分ほどかけて、車の調子が悪いことや息子の耳が痛むこと、電気製品の修理になかなか来てもらえないことなどを話しました。それで牧師は、彼女がどのように問題を解決すべきかひとつひとつ教え始めました。「そんなことは、もうとっくにやったわ。」夫を見つめて彼女はため息をつきました。「問題を解決してもらいたいわけではないの。私の一日に関心を持ってほしかっただけなの。」

ダビデは、「あなたの恵みによって私の声を聞いてください」(詩119:149)と祈りました。私を愛してくださる神は、私の話に耳を傾けてくださるお方です。それはこのダビデの祈りが示す真理です。聞くことは愛することのひとつの表れです。

妻や夫、職場の同僚、また教会の友人が、問題を整理したり元気づけられたりするために必要なことは、話しを聞いてもらうことなのかもしれません。聞き上手になりましょう。神も示しておられます。愛は聞くのです。

聞くとは、愛するために今日できる最善のことかもしれない。

          

あなたはどのタイプ?

聖書のみことば:Ⅰヨハネ4:11-21

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。—Ⅰヨハネ4:11

世間にはふたつのタイプの人間がいる、とある人が言いました。誰かのいる部屋に入ってきて、「さあ、私が来ましたよ」と言う人と「やあ、君はここにいたんだね」と言う人です。

なんという違いでしょう。一方は「私に注目して」と言い、他方は「あなたの話を聞かせて」と言っています。「私が大事」な人と「あなたが大切」な人の違いです。前者は「世界は自分を中心に回っている」と考え、後者は「あなたに仕えるためにここにいます」と考えます。

後者のタイプの人として誰からも好かれたなら、素晴らしいと思いませんか。その人は、キリストの愛を恥ずかしがらず堂々と表現する人でしょう。

新約聖書には、このようにキリストの愛を表すために、実用的なヒントが示されています。互いに愛し合う(ロマ12:10)、霊的成長に役立つことを求める(ロマ14:19)、いたわり合う(Ⅰコリ12:25)、仕える(ガラ5:13)、重荷を負い合う(ガラ6:2)、赦し合う(コロ3:13)、励まし合う(Ⅰテサ5:11)、そして互いのために祈る(ヤコ5:16)ことです。

クリスチャンは、「互いに愛し合う」というタイプの人でしかないはずです。あなたはいかがですか。

神のために心をくだく人は、人のためにも心をくだく。

いつまでも幸せに?

聖書のみことば:Ⅰペテロ3:1-12

あなたがたは、…外面的なものでなく、…心の中の隠された人がらを飾りにしなさい。—Ⅰペテロ3:3-4

おとぎ話では、「ふたり」は結婚していつまでも幸せに暮らすのですが、現実の世界にその保証はありません。歯車が狂うことがあるからです。最悪の状況になる場合さえあります。良かれと思ったことが裏目に出て傷つき、恨みと不安で暗い家庭になってしまうかも知れません。不幸な結婚生活ほど耐え難いものはありません。

しかし、問題をかかえた結婚生活は、「心の中の隠れた人がら」(Ⅰペテ3:4)を神に取り扱っていただく環境になります。ですから、相手の欠点ばかりに注目せず、自分の心に潜む悪に気づくよう心を開いて願わなければなりません。神は、優しくゆっくりとその祈りに応えてくださり、私たちはありのままの自分を見るようになります。そして、自分は自らが思っていたように、思いやり深く、親切で忍耐強い人物ではなく、礼儀正しくも、寛大でも、自制心があるわけでもない、と悟ります。自分が不当に扱われても仕返しなどせず愛情深く正しい行いをするためには、救い主の赦しと聖霊の助けがどれほど必要なのか、分かるようになります(1-12節)。

恵みの中で私たちが成長すれば、相手は変わるかも知れません。しかし、変わらないかも知れません。人生で、神の愛以外に保証できるものは、何も存在しません。しかし、神の助けがあれば自分を変えることができます。結婚生活の悩みがすべて解決しなくても、神の恵みは私たちを健全にします。

結婚生活はふさわしい相手を見つけるのではなく、ふさわしい相手になることで成功する。

対位法

聖書のみことば:Ⅰペテロ3:1-12

あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。—Ⅰペテロ3:8

結婚生活についての話し合いで、「良い夫婦関係を築く鍵は、『ふたりがひとりになる』ことです」と言った人がいます。すると、別の人が言いました。「そのとおりです。でも、どちらに合わせるのですか。」自分が自分であることを犠牲にしなければ、夫婦がひとつになることはできないのでしょうか。

音楽用語の「対位法」を考えてみましょう。これは、ふたつ以上の独立した旋律がそれぞれの特徴を保持したまま、ひとつのハーモニーを形成するものです。バッハの「主よ人の望みの喜びよ」では、音階練習のように聞こえるピアノの旋律が、美しいメロディーのコントラストをなしています。このふたつは、各々の特色を失うことなく相まって、ひとつの曲になっています。

使徒パウロは、妻は夫に服従するように(Ⅰペテロ3:1)、夫は妻を理解し尊敬しなさい(7節)と説いた後で、「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、…報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです」(8-9節)と語りました。

ふたりがひとりになることは、愛と親切によってのみ可能です。自分本位に求めるばかりでは決してうまくいきません。神は、夫と妻のそれぞれを、結婚の神秘性の中でユニークな旋律にしてくださいます。ふたりが共に奏でると、神の壮大な調べの美しいハーモニーになります。

結婚生活からハーモニーが流れるためには、キリストと音合わせをしなさい。

はい、そうします

聖書のみことば:ヨハネ1:1-12

この方を受け入 れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。—ヨハネ1:12

巡回伝道者は、ヨハネの福音書1章12節を開き、キリストを受け入れて神の子どもとされるとはどういうことか、説明していました。「あなたは、フランクリン夫人ですね。」「はい」、と婦人は答えました。「その名字になって何年になりますか。」「30年です。」「では、フランクリン夫人になったときの様子を説明してください。」

彼女は、少し考えてから言いました。「結婚式の最中に、『この男を夫としますか』と牧師が言ったので、『はい、そうします』と答えました。それで、彼の妻になりました。」伝道者は、尋ねました。『そうなるとよいですね』とか『そうするよう努力します』とは言わなかったのですか。「いいえ。『はい、そうします』が正しい言葉でしたから。」

その巡回伝道者は、救い主キリストを受け入れるのも同じことで、神は彼女がそうしてくれればよいと待っている、と言いました。その説明が胸にすとんと落ちて、彼女は声を上げました。「そういうことだったんですか。」なぜもっと早く「そうします」と言わなかったのだろうと思いつつ、彼女はキリストを救い主として受け入れました。聖書が記すように、キリストが彼女の罪のために死んでくださったと信じたからです。

イエス・キリストが、救い主だと信じていますか。まだなら、「主イエスよ、私は罪と決別して、あなたを救い主として私の心に迎えます」と、心から言ってください。これが、人生で最も重要な言葉です。

信仰とは、神の救いの賜物を受け取る手だ。

子どものように

ずいぶん昔のことですが、就寝前の祈りの後、2歳の娘が「ママ、イエスさまはどこにいるの」と尋ねました。妻は驚いて「天国よ。それから、どこにでもよ。今ここにもおられるわ。お願いすれば、あなたの心の中にもいてくださるのよ」と言いました。「イエスさま、私の心にいて欲しい」と娘。「いつかお願いしましょうね」と妻が応じると、娘は「今、お願いしたい」と答え「イエスさま、私の心に来て、いっしょにいてください」と祈りました。それが彼女の信仰の始まりでした。

喜び

私は年齢を重ねていくことを意識するようになりました。今、人生の「冬」の季節に向かって足早に進んでいます。まだ「老い」の領域に達してはいませんが、時の流れがあまりに速く、戸惑うことがあります。

そんな私を支えるのは喜びです。今日という日は主にいただいた新しい日です。私は詩篇の作者とともに「主に感謝するのは、良いことです。…朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表すことは」(詩92:1-2)と語ります。

私の人生にも数々の闘いがあり、周りの人の痛みや困難に押し潰されそうになることもあります。しかし私は、詩篇の作者とともに、主の御手のわざを、喜び歌います(詩92:4)。私は、家族、友だち、満足な仕事という祝福をいただいていることに喜んでいます。神の創造の不思議と神の霊感によるみことばがあるので喜びます。イエスに愛され罪をあがなわれたので喜びます。また、神が聖霊をくださったので喜びます。聖霊は真の喜びの源です(ロマ15:13)。主がおられるので、信じる人は「なつめやしの木のように栄え、…年老いてもなお、実を実らせ」ます(詩92:12-14)。

どんな実が実るのでしょう。私たちは年齢や状況に関わらず、自分の生き方や発言によって、神の愛の模範になることができます。神を深く知り、神のために生き、神を語る者とされる人生には喜びがあります。