Month: 2月 2018

子羊のように

聖書のみことば:イザヤ53:1-9

ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。—イザヤ書53:7

イタリアの芸術家カラヴァッジオは1602 年に、「キリストの逮捕」という絵を描きました。初期バロック様式のこの作品には、人をひきつける力があります。この絵画の暗い色合いによって、それを見る人々は、イエスがゲッセマネの園で捕えられた場面に遭遇することができます。この絵を見ると、ふたつの点に引きつけられます。まず、口づけをする裏切り者のユダです。そして、イエスの手です。イエスの両手は軽く組まれていて、この不正な逮捕に対して、まったく抵抗する意図のないことを示しています。キリストは全宇宙を創造する力をお持ちでしたが、自ら進んでご自分をささげ、捕えられて十字架にかかられたのです。

このようなことが起こるずっと前、イエスは「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」と語られています(ヨハ10:18共同訳)。預言者イザヤは、イエスがいのちをささげられることを預言し「ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」(イザ53:7)と記しました。

犠牲の羊になられたキリストの姿は、このお方の力強い愛を如実に表しています。イエスは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハ15:13)と説明されました。イエスはこれほどまでに、あなたを愛しておられます。

釘を打たれたイエスの手は、愛に満ちた神のみこころを表している。

正直な疑い

聖書のみことば:マタイ28

そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。—マタイ28:17

自分の経験から、死んだ人は戻ってこないと分かっています。愛する人を亡くした悲しみの中心にあるものは、この世で二度と会えないという辛い現実です。私たちは葬式に参列して、亡くなった人を偲び、遺族と悲しみを共にします。帰り際に死んだ人が出口で見送ってくれるとは思いません。

それを思うと、イエスの弟子たちが、初めは疑ったのも無理はありません。イエスは死からよみがえられました。天使や空っぽの墓、そしてイエスご自身を見た(マタ28:1-10)という女たちの証言に続いて、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登りました。聖書は、「そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った」(16-17節)と記しています。

主の一番近くですばらしい教えを聞いたり、力強い奇跡を目の当たりにしたりした彼らでさえ、何人かはイエスのよみがえりを疑いました。しかし、その正直な疑いは、よみがえられた主、という現実をしっかりと受け止められたとき、すぐさま喜びと希望に変わりました。

私たちは、主に対して疑いを持っていないでしょうか。自分の経験から、過去の過ちや現在の葛藤、また将来の展望などは、変わらないと思い込んでいませんか。新しい気持ちでイースターを迎え、主に不可能なことはないと信じませんか。

カルバリの丘に目を向けるなら疑いは消える。

期待を胸に

聖書のみことば:ヨハネ20:1-10

そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓についた。—ヨハネ20:3-4

エスが十字架の上で息を引き取られた陰惨な一日が終わり、この世の希望は絶たれたように思われました。群衆やイエスの弟子たちは、このお方の教えが知恵に富み、また素晴らしい奇跡も起きるので驚いていました。しかし、それもたった数年のことでした。イエスはご自分を十字架から救おうとはされず、その生涯は終わりを告げたのです。イエスにはもう何も期待できないと、誰もが思いました。

しかし、復活の朝、希望がよみがえりました。ユージーン・バーナンドの絵に描かれているのは、ペテロとヨハネが墓に駈けつけている様子です。マグダラのマリヤは、夜が明けるや否や友人とともに墓に来ると、その中が空なのを発見し、彼らに告げました。この絵には、墓に向かって走っているペテロとヨハネの複雑な心境が描かれています。彼らの表情には、苦悩と安堵、悲しみと驚き、そして、絶望と驚嘆が混在しています。彼らの視線はしっかりと前方を見据え、その絵を鑑賞する者たちの意識を墓に釘付けにします。彼らは何を見つけたのでしょう。空になった墓です。そうです。救い主は生きかえったのです。

キリストは、今も生きておられます。けれども、私たちの多くは、このお方がまだ墓におられるかのように暮らしています。空になった墓の向こうを見てください。そこにおられる救い主は、復活の力で、私たちの人生を満たしてくださいます。

受難の犠牲者は、復活の勝利者だ。

新しい普通

聖書のみことば:ローマ6:1-11

キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。—ローマ6:4

癌を宣告されたとき、医者の言葉を聴こうとしましたが耳に入りませんでした。家に帰ると、頭まで毛布をかぶって眠りました。悪い夢ならさめてほしいと願いながらです。

何とか気を取り直してそのことを親しい人に告げたとき、友人のジュディーは同情してくれましたが、次のようにも言いました。「これから、こういうことが起こるのよ。まず3 日間は、すごく落ち込むわ。その後、しゃきっとして、すべきことは何かを考えるようになるの。それから、淡々とそれをこなして毎日を生きていくのよ。」さらに続けて、こうも言いました。「これは、死、葬り、復活と関係していると思うわ。」

私は当時、彼女の言葉を信じませんでした。私が思うところの人生は、もう終わったと確信していました。何もかもが変わってしまって、普通の自分でいられるなどとは想像さえできません。けれども、彼女が正しかったのです。3 日目の朝に目を覚ました時、それほど気分が悪くないことに気づきました。それから、化学療法のために身体はつらくても、感情面と霊的な面においては少しずつ改善し、かなり良い線をいくようになりました。私は古いリアリティーに「死」に、新たな「普通」のなかに「復活」したのです。

感謝すべきことに、神は復活の神です。キリストを信じて死んだ人々にとって、死という現実は、栄光に満ちた新しい「普通」の中に復活することを意味します。ですから、私たちは「いのちにあって新しい歩みをする」(ロマ6:4)ことができるのです。

「キリストにあって」生きることは、イエスの人生、死、そして復活を分かち合うことだ。

誰がイエスを十字架に

聖書のみことば:ルカ23:33-38

「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。—ルカ23:33

レンブラントの「3本の十字架」を見ると、イエスがかけられた十字架がはじめに目に飛び込んできます。そして、十字架のもとに集まっている群集に目を移すと、神の御子を十字架につけるという恐ろしい過ちに関わっている人々のさまざまな表情や態度に引きつけられます。最後に絵の隅に視線が移ると、影に隠れているようなひとりの人に気づきます。これは、自分の罪がイエスを十字架につけたと悟ったレンブラント自身の姿ではないかという美術評論家もいます。

ある人が次のように言いました。「キリストが世の罪のために死んだと言うのは簡単なことだ。しかし、私の罪のために、と言うのは違う。自分も、ピラトのように無関心で、カヤパのように策略的になれる。兵士たちのように冷淡で、群集のように無慈悲になれる。また、弟子たちのように臆病になる。そう思うとショックだ。彼らが何をしたかではない。私がイエスを木に釘づけにしたのだ。私が、神のキリストを十字架につけ、嘲笑の輪に加わったのだ。」

あなた自身をレンブラントに重ねてみましょう。あなたもそこにいたのです。しかし、十字架につけられたイエスのみことば、「父よ。彼らをお許しください」(ルカ23:34)を思い出しましょう。「彼ら」には、あなたも私も含まれています。感謝しましょう。

キリストの十字架は、神の愛と世の罪を最も明らかにしている。

間違ったプライド

偉業を成し遂げた人を現役でも「レジェンド」と呼ぶことがあります。プロ野球選手だった友人は「レジェンド」のように振舞う多くのスポーツ選手に会ったと語ります。高慢は自分を見失わせがちです。謙虚ならば、本当の自分が見えてきます。

安心の毛布

スヌーピーの漫画に登場するライナスは優しく頭が良いのですが、いつも毛布を持っています。それで安心感を得ようとしているのです。私たちにも恐れや不安がありますから、彼と同じです。

苦しみの中で神を賛美する

癌だったと母に告げられ、動揺したくなかったのですが、涙が止まりませんでした。癌の告知など1度でも辛いのに、3度目の再発でした。マンモグラフィと生体組織検査で、脇の下に悪性腫瘍が発見されたといいます。

神の声を聞く

父は昔、難聴の不便さを語っていましたが、私も年配になり、今では補聴器をつけています。補聴器は非常に役立ちますが、騒々しい場所は例外です。室内のすべての音を拾い上げてしまうので、目の前で話している人の声が聞き取れないのです。