やもめの信仰
アピの一日は夜明け前から始まります。中国のホンジャン村に住む人たちにとって、ゴムの樹液は主な収入源のひとつです。多くの樹液を採取するためには、日が昇る前にゴムの木に傷をつけなくてはなりません。村の人たちも、まもなく起き出すでしょう。アピは誰より早く起き、神と交わってから出かけます。彼女は、父と夫、ひとり息子に先立たれ、義理の娘とともに、年老いた母とふたりの幼い孫を養っています。彼女の話は、聖書に登場する、あるやもめを思い出させます。
記憶喪失
カリフォルニア州カールスバッド市の救急サービスが、オーストラリアなまりの英語を話す女性を救出しましたが、彼女は自分が誰なのか、どこから来たのか分かりません。また身分証も持っていませんでした。しかし医師たちの努力と国を超えた報道のおかげで、記憶を取り戻し、家族と再会できました。
待つ所
多くの児童書の作家であるドクター・スースは「魚が餌にかかるのを待ち、凧を上げる風を待ち、金曜日の夜を待ち…みんないつも待っている」と語ります。人生は待つことだらけですが、神は決して急いでいません。昔の人は「時も遅れも神のもの」と語りました。そういう訳で、私たちは待っています。
平和の秘訣
グレースは「平安」に満ちた特別な女性です。彼女と知り合って半年になりますが、心を乱した姿を見たことがありません。夫が難病と診断され入院したときも落ち着いていました。
細部にも目配りされる神
我が家の愛犬ラブラドルレトリバーの「チョコレート」が生後3カ月のとき、健診と予防接種を受けさせました。獣医は診察中に子犬の左の後足に白い毛の部分があるのに気づいて「神さまはここを持って、あなたをチョコレートに浸したのね」と優しく話しかけました。私は声を出して笑いましたが、彼女は計らずも重大なことを指摘していたのです。それは、神が一つひとつの被造物に、深い関心を寄せておられるという事実です。
どこまでも
結婚式の写真を見ると、私は「どこまでも彼について行きます」という顔をしています。私たちは夫婦になって40年近く経ちます。良い時も大変な時もありましたが、互いに対する愛と献身で強く結ばれています。私は年ごとに「どこまでも彼について行きます」と献身の決意を新たにしてきました。
赦すとは
ある日「父とふたりの息子―赦しの芸術―」という展覧会に行きました。その出品作はすべて、放蕩息子のたとえ話(ルカ15:11-32)を題材にしています。私はエドワード・リオハスの絵に特に心を動かされました。その絵は、わがまま放題に家出していった息子が、ぼろ布をまとい、うつむいて戻って来る様子を描いています。青年は死の国を後にして道を歩いていましたが、父はすでに彼に向って駆け出していました。その絵の下には「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い」という聖書のみことばが添えてあります(20節)。
急がない
ふたりの友人から「急ぐことを断固として生活から排除する」という哲学者ダラス・ウィラード博士の名言を立て続けに言われました。耳を傾けるべき忠告です。自分ひとり空回りして時間やエネルギーを無駄にしたり、神に導きと助けを祈るのもそこそこに動き出したり…。私は数カ月の間、そういう傾向を見つけては、この言葉を思い出し、主と主の知恵に常に向き合おうとしました。自分のやり方にこだわらずに神に頼りなさいと、何度も自分に言い聞かせました。