祈ること
私は英国の作家G.K.チェスタトンの作品が好きです。彼の洞察力やユーモアにはクスッと笑わされ、同時に深く考えさせられます。たとえば、彼はこう書いています。「人は食前の祈りをすると言います。けれど私は、演劇やオペラの前、コンサートやパントマイムの前、読書やスケッチ、絵画、水泳、フェンシング、ボクシング、散歩、遊び、ダンス、そしてインク壺にペンを浸す前にも、祈ります。」
友の慰め
学校から娘が下半身を泥だらけにして帰って来たと話すある母親の記事がありました。娘によると、友だちがぬかるみで転んで足を痛めたのでクラスメイトが助けを呼びに行ったそうです。その間、彼女の幼い娘は、痛い足を抱えて泥の中に座っている友だちを不憫に思い、その隣に座って先生の到着を待っていたと言います。
属するということ
夜遊びをして帰宅。当時私は20歳で、神を離れていました。しかし翌朝、なぜか突然、父が牧師をしている教会の礼拝に行こうと思いました。そして、よれよれのジーンズにTシャツ、ひものほどけたスニーカーを履いて、車を走らせました。説教の内容は覚えていませんが、私を見て大喜びした父の顔は忘れられません。私の肩を抱き「息子です」と教会の皆に誇らしげに紹介してくれました。父の嬉しそうな姿は、神の愛の投影となって、数10年経った今でも私の目に焼き付いています。
イエスとの交わり
ある夕食会でビリー・グラハム師の隣に座らせていただいたことがあります。一生忘れられない光栄なことですが、同時に何を話せばよいかと緊張していました。それでまず、主の働きに長年携わってきて一番楽しかったことは何ですかと尋ねてみました。そして、大統領や王室の人たちと知り合ったこと、世界中で何百万人という人々に福音を伝えたことですか、と続けようとしました。しかし、グラハム師は、私が続きを言い終える前にためらうことなく言いました。「一番楽しいことは、イエスとの交わりです。主の臨在を感じ、主の知恵を与えられ、主に導いていただくこと、それが、私の最大の喜びです。」
時を持つ
アフリカに「西洋人は時計を持ち、アフリカ人は時を持つ」ということわざがあるとオズ・ギネス牧師は著書の中で語っています。私は「時間が無い」と言って人の頼みを断ってしまった時々のことを思い出し、何と自分はスケジュールや締め切りに振り回されているかと思いました。
どんな時にも意味がある
エイダは家族や友人に先立たれ、介護施設で暮らしていました。「年をとって一番辛いのは、皆が逝ってしまい、ひとり残されることよ」と言いました。私が生きがいは何かと尋ねると「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」(ピリ1:21)という使徒パウロのことばを引用してこう言いました。「生きている限り仕事があります。体調が良い日は、施設の人たちにイエスについて話し、具合が悪い日は祈ることができます。」
不健全な判断力
歩きスマホをしている人を見ると「車にひかれるわよ。危険だって分からないのかしら」と心で非難していました。ところがある日、私はメールを夢中で読んでいて路地の奥から来た車に気づきませんでした。幸い、運転手が先に気づいて止まってくれましたが、恥をかきました。今まで独り善がりに人を非難していたことを思い出して動揺しました。人をさばいていたそのはかりで、自分をさばくことになりました。
混乱の中の祝福
自業自得だから、自分で何とかしなければと思うことがあります。神のあわれみを信じていても、神が助けてくださるのは、私に落度のないときだけだと考えてしまいがちです。しかし、そうでないことは、ヤコブが初めて神と出会ったときの様子から分かります。
私たちの隠れ家
初めてのアルバイトはファストフード店でした。ある土曜日の夕方、男性客に仕事は何時に終わるのかと尋ねられ、不安になりました。その人は店長からとがめられないように、フライドポテトを注文したり、飲み物を注文したりして、時間を潰しています。私の家は近所でしたが、暗い駐車場や空き地の前をひとりで歩くのが怖くなりました。とうとう深夜12時の終業時刻になり、私は事務所から家に電話しました。