明るい未来を作る
カンザス州の小さな町ネオデシャの高校で、生徒300人が驚く話を聞きました。町とつながりがある夫婦が、この先25年間、ネオデシャ出身の大学生の学費を払ってくれるというのです。彼らは驚がくし、大喜びで、涙ぐむ者もいました。
悲しみと感謝
母が亡くなったとき、がん病棟の患者の1人が、私に話しかけ「お母様には、とても親切にしてもらいました。私が先に死ぬはずだったのに……」と言ってすすり泣きました。
心の故郷
迷子犬のボビーは、飼い主が夏の休暇を過ごした時にはぐれてしまいました。家から3500キロ以上離れた土地です。一家は必死で探しましたが見つからず、傷心のうちに帰宅しました。
鏡に照らして
心理学者が自己認識を調べるために「鏡の中にいるのは誰?」と子供たちに尋ねました。通常、幼児は1歳半ぐらいにならないと、鏡に映っているのが自分だと分かりません。しかし、成長すると、それが自分だと分かるようになります。自己認識は、正常な発育を知るうえで、重要な目印です。
神の柔和な恵み
詩人のエミリ・ディキンスンは「真実そっくり語りなさい。しかし斜めに語りなさい」と書きました。神の真実と栄光は、人間というもろい存在には「明るすぎ」て、直球で受け取ることはできません。ですから、神の恵みと真理は、ふんわり、やんわり伝えるのがよいそうです。「真実はゆっくりと輝くのがよいのです さもないと誰もかも目がつぶれてしまいます」
自由に生きる
イエスを信じる者は、御霊によって生きることと、利己的な欲望に身を任せることとの間で、常に葛藤します。解決法は2つしかありません。1つは、死んで神のもとに行くこと、もう1つは、あらがうのをやめて肉に屈することです。後者は、決して選んではならない選択肢です。
絶望的に聞こえますか。しかし、肉との戦いは負け試合ではありません。パウロはローマ人への手紙6章で、罪がもはや私たちを支配する権威を持たない根拠を述べています。私たちがイエスとともに死んだのなら、すでに罪から解放されています(7節)。罪はもう私たちの主人ではありません(14節)。ですから、目の前にある罪の誘惑に強く引かれても、屈する必要はないのです。
かつて罪に支配された私たちは、今やキリストにあって、罪の奴隷ではありません。罪や肉という以前の支配者と御霊との綱引き状態の中で暮らしていますが、選ぶのは自分です。イエスに属している今、御霊を選び続けましょう。
肉との戦いが絶望的でないと言えるもうひとつの理由は、いつか終わりが来るからです。パウロはエペソ人への手紙1章13-14節で語っています。御霊は、私たちがキリストに属しているという事実を示す印であり、未来を保証するものです。御霊に満たされた人々は、いつの日か完全に変えられ、新しい復活のからだを持つようになります。私たちは、罪を犯すことから完全に解放されるのです。
私たちの人生における聖霊のご臨在は、罪も苦しみも恥もない、栄光ある神の子としての輝かしい未来を指し示しています。
どうすれば聖霊の力によってよりよく生きられるのでしょう。今月は、御霊の実が私たちの心や生活に反映されるとはどういうことかを考えてみました。このテーマは、10月1、8、15、22日のエッセーでも取り上げています。
実が教えてくれる
米国のクイズ番組「本物は誰だ」のエンディングは、「本当の○○さん、お立ちください」という決まり文句です。ある人物を名乗る3人に、4人の芸能人が質問をします。もちろん、2人は偽者で、本物を見分けられるか否かは彼らの腕にかかっています。「赤鼻のトナカイ」を作詞したジョニー・マークスを当てなければならない時もありました。良い質問をしても、本物を言い当てるのは結構難しいものです。番組を面白くするために、偽者は上手に嘘をつくからです。