賞をめざして
アメリカ映画「フォレスト・ガンプ」(1995年日本公開)のフォレストは、走ることで有名になりました。この道の行き止まりまで、と 思って始めたものが、結局、3年2ヶ月14日と16時間走りつづけました。自分で決めた目的地に着くと、次の目的地を定め、もう走る気がなくなるまで、アメリカをジグザグに横断したのです。何となく走りたいと感じたことがそもそもの動機でした。フォレストは語ります。「あの日、特に理由もなく、僕は、ちょっ と走ろうと思った。」
本当の友だち
中学生のとき、私には「たまに友だち」という人がいました。同じ教会で唯一の同年代だったので、時々いっしょに遊びました。しかし、学校では事情が違いました。誰もいない所では声をかけてくれても、他の人と一緒だと素通りされました。それに気づいてからは、学校では声をかけなくなりました。教会内限定というこの友情の限界が分かったからです。
聖霊の促し
助けるべきだと思ったが、結局、何もしなかった。そんなことが最近ありましたか。生活の中で感じたことは、主への愛に突き動かされ、信仰の深みに漕ぎ出せという神の招きかもしれないと、クレア・デ・グラアフは著書『10秒ルール』で語ります。つまり、イエスに「やって」と言われたと感じたことを、躊躇せずに行おうという勧めです。
新しい人
ロンドンの現代美術館テート・モダンを訪れた時、ブラジルの芸術家シウド・メイレリスの作品に目が留まりました。何百もの古いラジオで組み立てた巨大な塔です。すべてのラジオは別々のチャンネルに合わせられているので、言葉が入り乱れて理解不能。作品名はバベルです。
路上チームの一員
サンフランシスコ市の保健所職員は、麻薬依存症に苦しむ路上生活者に薬を提供するために街に出ていきます。この活動はホームレスの薬物乱用者が増加したことを受けて始まりました。通常、患者が診療所にやって来ます。しかし、医療従事者の方から患者のもとに出向くことで、患者側のハードルを下げています。患者は、交通手段の確保をしたり予約を忘れないように努力したりしなくてもよいのです。
三つ編み
友人が40年以上育てたという観葉植物を譲り受けました。私の背丈ほどで3本の細長い幹に大きな葉がついています。その後、3本の幹は、葉の重みでしなってしまいました。私は鉢植えを太陽の当たる窓際に置きました。こうすれば、葉が太陽へ向かって伸び、幹がまっすぐになるだろうと思ったのです。
これが私
ミュージカル映画「グレイテスト・ショーマン」の劇中歌「ディス・イズ・ミー」(これが私)は迫力ある歌です。これを歌う人物は、社会の「普通」から外れていたために、言葉の暴力やいじめに苦しみました。彼女は、言葉は心を傷つける弾丸やナイフのようだと歌います。この歌の人気は、どれほど多くの人が、言葉という武器で心を傷つけられたかを示唆しています。
ヤコブは、言葉の潜在的な危険性を理解し、それは「少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています」(ヤコ3:8)と語りました。驚くような強い表現ですが、言葉の持つ危険な力に早く気づくべきだと考えて、このように述べたのでしょう。また、神をほめたたえたその口で、次の瞬間には、神にかたどって造られた人を傷つけるという矛盾も指摘しています(9-10節)。
前述の「ディス・イズ・ミー」も言葉の暴力を非難し、私たちはみな素晴らしいと訴えます。聖書も各々に尊厳と美があると語ります。それは姿かたちや、何ができるかではありません。一人ひとりが神の傑作だからです(詩139:14)。私たちの互いに対する言葉は、その真理を明らかにする力があります。
下ではない
第一次世界大戦の終結後、米国のウィルソン大統領は、地上最強の指導者のひとりになりました。しかし、1919年に脳梗塞を発症した後は、妻エディスが、ほぼすべての職務を担い、大統領の判断を仰ぐべき事柄を選んでいたことは、あまり知られていません。しばらくの間、実質的な大統領だったのは、エディス・ウィルソンだと、現代の歴史家たちは確信しています。
主人公
ある有名な神学大学院の説教の授業で、こんなことがあったそうです。ひとりの男子学生が、熱く、堂々と雄弁に説教し、満足気に席に戻ると、教授は、ひと呼吸して言いました。「力強い説教でした。構成 も良く感動的でした。唯一の問題は、神が主語だった文がひとつも無 かったことです。」