信じるに足るお方
友人が涙ながらに「もう誰も信じられない。信じるたびに傷つけられるから」と言いました。別れたばかりのボーイフレンドが彼女の悪口を言いふらしていると言うのです。私は憤慨しました。友人は、子どもの頃の辛い経験を乗り越えて再び人を信じようとしていたのに、裏切られたのです。
まばたきして神を想う
友だちのライリーが「神さまってまぶたのようね」と言ったので、私はびっくりして「それってどういうこと?」と尋ねました。私たちは聖書に示されている神の姿について、いっしょに学んでいました。例えば、子を産もうとしている母(イザ42:14)、蜂に合図する養蜂家(7:18)などです。けれど、まぶたというのは聞き慣れないものでした。ところが、ライリーは申命記32章を示しました。モーセはここで民の世話をしてくださる神を賛美し、「ご自分のひとみのように、これを守られた」(10節)と語っています。
永遠の花
息子のザビエルは幼い頃、母親に花をあげるのが大好きでした。摘みたての雑草もパパと店で買ってくれた花も、母である私は喜んでもらい、枯れるまで部屋に飾っていました。そんな ある日、ザビエルは美しい造花の花束をくれました。ガラスの花瓶に入った布製の黄色いヒマワリ、白いカラー、紫色のアジサイです。そしてにっこり笑って「ママ、この花は永遠に枯れないよ。僕もママを永遠に愛しているよ」と言いました。
キャンプで読む詩篇
私たち夫婦は野山を散策し草花を至近距離から撮影します。それらは驚くほど多様で美しく、まるで世界を顕微鏡で見ているようです。キノコにも驚かされます。それは一夜にして地面に現れ、色彩豊かな点々で森を明るく彩ります。
光の無い道
休暇からの帰り道、オレゴン州中部の荒野を通りました。夕暮れどきの2時間余り、私たち家族の車は深い渓谷を抜け砂漠の尾根道を走りました。その間、すれ違う車は20台も無かったでしょう。やがて月が登りましたが、山の峰があるので見えたり見えなかったりします。娘は「神のご臨在と同じね」と言いました。私は「神がおられると見えなくてはいけない?」と尋ねました。すると彼女は「そんなことはないわ。でも見えたら確実に助かるわ」と答えました。
神が思い出を用いられる
喪失や失望の経験は、怒りや罪責感、混乱をもたらします。自分が選択を誤ったために道が閉ざされたり、過失は無いのに悲劇に襲われたりした時、「もし~だったなら」と深く悲しむでしょう。そして、その辛い記憶を押し殺そうとしても、それは不可能だと気づきます。
永遠に愛されて
冷たくされたり、無視されたり、けなされたり、ということのない一日などありえないのかもしれません。そんな風に自分で自分を扱ったりすることさえあります。
優しく触れる
カナダの地下鉄で実際に起こった出来ごとです。通勤途上の乗客たちは一触即発の事態が感動的に収拾するのを目撃しました。恐ろしいほどの大声で悪態をついていた青年に初老の女性が優しく手を差し伸べ、彼を親切に取り扱ったためです。その青年は女性の優しさに泣き崩れ、「ありがとう、おばあちゃん」と言って立ち去りました。この女性は自分も怖かったそうですが、インタビューに応えて次のように述べました。「私自身、母親です。あの青年には優しく触れてくれる人が必要でした。」彼女は知らん振りをすることもできました。しかしそうはせず、リスクがあっても愛を示すことを選びました。
愛の代償
外国で暮らしている私たちの家にしばらく滞在して帰国の途につく両親に「さよなら」と手を振っていると、幼い娘が泣き出しました。「行かないで!」と泣く娘をなだめていると、夫は「可愛そうだけど、これは愛の代償だ」と言いました。