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世界の宝

ミケランジェロのダビデ像の写真を無断で編集し自社の広告に用いた会社に対し、イタリア政府と美術館が抗議しました。文化庁の担当者は、ダビデが石投げではなく軍用ライフルを肩にかついだ写真について「金槌で像を叩き壊すよりもまだ悪い」と語りました。

雪のように白く

昨年12月、私たち家族は山岳地に行きました。私たちは常夏の地域で生まれ育ち暮らしてきたので、本物の雪を見たのは生涯初めての体験でした。地面に積もった白い雪を見ながら、夫が「『さあ、来たれ。論じ合おう』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる』」(イザ1:18)のみことばを口にしました。

すぐに駆け付ける

母が癌だと言われたとき夫は職場にいました。それで伝言を残して友人や親戚に電話をしました。しかし誰もいません。震える手で顔をおおい泣きました。「主よ、助けて下さい」すると「私はここにいる」と返事があったように感じ、孤独な瞬間でさえ、慰めがありました。夫が帰宅し、親戚や友人が心配して連絡してきてくれたのはありがたいことでした。しかし、ひとりで悲しみに耐えていたときに神の臨在を感じたことで、私は、いつどこで助けを求めても、神は必ずすぐにそばにいてくださると確信しました。

子どものように

ずいぶん昔のことですが、就寝前の祈りの後、2歳の娘が「ママ、イエスさまはどこにいるの」と尋ねました。妻は驚いて「天国よ。それから、どこにでもよ。今ここにもおられるわ。お願いすれば、あなたの心の中にもいてくださるのよ」と言いました。「イエスさま、私の心にいて欲しい」と娘。「いつかお願いしましょうね」と妻が応じると、娘は「今、お願いしたい」と答え「イエスさま、私の心に来て、いっしょにいてください」と祈りました。それが彼女の信仰の始まりでした。

喜び

私は年齢を重ねていくことを意識するようになりました。今、人生の「冬」の季節に向かって足早に進んでいます。まだ「老い」の領域に達してはいませんが、時の流れがあまりに速く、戸惑うことがあります。

そんな私を支えるのは喜びです。今日という日は主にいただいた新しい日です。私は詩篇の作者とともに「主に感謝するのは、良いことです。…朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表すことは」(詩92:1-2)と語ります。

私の人生にも数々の闘いがあり、周りの人の痛みや困難に押し潰されそうになることもあります。しかし私は、詩篇の作者とともに、主の御手のわざを、喜び歌います(詩92:4)。私は、家族、友だち、満足な仕事という祝福をいただいていることに喜んでいます。神の創造の不思議と神の霊感によるみことばがあるので喜びます。イエスに愛され罪をあがなわれたので喜びます。また、神が聖霊をくださったので喜びます。聖霊は真の喜びの源です(ロマ15:13)。主がおられるので、信じる人は「なつめやしの木のように栄え、…年老いてもなお、実を実らせ」ます(詩92:12-14)。

どんな実が実るのでしょう。私たちは年齢や状況に関わらず、自分の生き方や発言によって、神の愛の模範になることができます。神を深く知り、神のために生き、神を語る者とされる人生には喜びがあります。

聖なるかな、聖なるかな

楽しい時間はすぐに過ぎてしまう…。そのとおりだと思います。好きな仕事をしたり、気の合う人と過ごしたり、人生が順風満帆のとき、時間は瞬く間に過ぎ去ります。

いのちの神

数年前のことです。冬の終りに気温が氷点下20度以下という極寒が2週間も続いたことがありました。とりわけ寒かったある日、小鳥のさえずりが夜の静寂を破りました。何十羽、何百羽もの小鳥たちが、思いの丈を伝えるように鳴く様子は、創造主に向かって、この寒さを何とかしてくださいと言っているかのようでした。

態度に表れる

レジーナは身も心も疲れて帰宅する途中でした。その日は朝から大変でした。友人から悲しいメールが届き、同僚との話し合いは平行線でした。祈っていると、嫌なことはさておき、老人ホームにいる友人のマリヤに花束を持っていこうと思いつきました。マリヤはレジーナが来ると、神は本当に良くしてくださると話しました。彼女は「自分のベッドと椅子、毎日3度の食事があり、介護士さんの助けもある。時々、窓辺に小鳥が来るのよ。神さまは、私が小鳥が大好きだと御存じだから、小鳥を送ってくださるの。私は神さまに愛されているのね。」と言いました。

小さな約束

末の娘と私はよく階段である遊びをします。階段を上る娘の後を追いかけて、彼女が上り切る前に、軽くつねるのです(「軽く」ですよ)。上り切ってしまったら、娘の勝ちです。しかし、遊ぶ気分でない時、娘はきっぱりと「つねらないで!」と言います。すると私は「分かった。つねらない。約束する」と答えます。