全てを失う
タイミングが悪すぎました。セザールは、橋やビルなどを建築するビジネスで一財産を築きましたが、それを売却して新たな事業を始めようとしていました。しかし、その資金を銀行に預けていたわずかな間に、政府が個人の銀行口座を凍結したのです。彼の全財産は一瞬で消えました。しかし、彼はこの不正義に対して不平を言わないと決め、次の一歩を神に祈り求めました。そして再出発したのです。
落胆の取説
オクラホマ州のある高校生たちは「一生に一度」の卒業旅行のためにお金を貯めてきました。ところが、航空券を買った会社が架空の会社と空港で分かったのです。学校関係者は胸が張り裂けそうだと言いました。しかし生徒たちは、腐らずに最大限に楽しもうと決意して、チケットを寄付してくれた近場の遊園地で2日間を過ごしました。
苦しみと希望
礼拝の終わりに紹介され、あいさつした新来者、ラトリースの言葉の深さは思いがけないものでした。彼女は2021年12月の壊滅的な竜巻に家族7人の命を奪われ、ケンタッキー州から引っ越してきたのです。彼女は「今でも笑顔を見せられるのは、神が私と共におられるからです」と言いました。傷つきながらも神を証しする彼女の言葉は目下の困難と戦っている人たちにとって、大きな励ましとなりました。
いつくしみ深き友
しばらく会えない間に、旧友はがんだと告知され、治療を始めました。彼の住む州に行く用事が思いがけずでき、再会することになりました。待ち合わせの店に入り、顔を合わせるや、2人の目に涙が溢れました。もう長く同じ部屋で語らっていません。そして今、死の気配が人生のはかなさを暗示しています。一緒に笑ったり、ふざけたり、冒険したり、泣いたり……。長年の数々の思い出がよみがえり、涙がとめどなく溢れました。見つめ合う目から流れるのは、互いの間にある大きな愛でした。
惜しまぬ心
作家パーカー・J・パルマーは、ある大学の卒業式で「利己的に自己中心に、また保身に勤しんできて良かった」と言って死ぬ人はいない、と述べ、広い心で惜しみなく社会に尽くすように卒業生を励ましました。しかし、続けて「そのように生きるなら、自分はいかに無知で、いかにたやすく失敗するかを学ぶことになる」と言いました。そして、社会に仕えたいなら、初心者の心で、リスクを承知で知らないことに真っ直ぐ向かっていき、何度失敗しても起き上がり、学び続けていかなければならない、と語りました
証人
ヘンリー・W・ロングフェロー(1807-1882)の詩『証人』は、沈没奴隷船を描いています。彼は「鎖につながれた骸骨」とつづり、無数の無名の犠牲者を悼みます。そして「これらは奴隷の悲痛な叫び。彼らは奈落の底からにらみつける。名もない墓から叫ぶ。我らはその証人!」と終わっています。しかし、この証人たちは、誰に向かって語るのでしょう。沈黙の証言など無駄ではありませんか。
神の永遠の教会
子ども連れの若い女性が来たのは礼拝の終了間際でした。「教会は終わりですか」ときかれたので、受付の人は、近くの教会の第2礼拝がもうすぐ始まると伝え、送りましょうと申し出ました。その女性は、とても感謝している様子でした。受付の人は後からこう思いました。「教会は終わったか。いや、決して終わらない。神の教会は永遠に続く」と。
励ましという贈り物
妻が戸を開けるなり「分蜂してる!」と言いました。養蜂家なら聞きたくない知らせです。外に出てみると、数千匹のミツバチが巣箱から高い松の木に飛んで行くのが見えました。もう戻ってはきません。分蜂の兆しを読み誤りました。1週間以上の嵐で勘が狂ったのです。嵐が去った朝、ハチは飛び立ちました。新しく健康な巣です。ハチたちは巣が手狭になったので、ニつに分かれて別の群れを作ったのです。熟練の養蜂家は「誰にでもあることだから」と、落胆する私に明るく声を掛けてくれました。
余白を作ろう
医師のリチャード・スウェンソンは、著書『余白』の中で次のように書いています。「私たちは息をするゆとりを持たねばならない。物思いにふけり、癒やされる自由が必要だ。人間関係は慌ただしさのおかげで瀕死の状態……子どもたちは大人が良かれと思って詰め込んだものに押しつぶされ、あえいでいる。神は消耗戦に賛成なのか。静かな水辺には導いてくださらないのか。ゆったりとしたあの時を奪ったのは誰だ。取り戻す方法はないのか」。スウェンソンは、私たちには静かで豊かな「余白」が必要だといいます。神と会い、神のもとで安らげる場所です。あなたも同感ですか。