思いがけない親切
友人がスーパーのレジに並んでいると、前の人が10ポンド(1500円)の割引券をくれました。寝不足で疲れていたせいか、彼女は不意の親切に泣き出し、今度はそんな自分がおかしくて笑ったそうです。思いがけない親切は、疲れ切った心を潤し元気をくれました。そして、赤の他人を通して良くしてくださった主に感謝しました。
誰でも大歓迎
最近、夫婦で旅行中、有名なスポーツ施設に行きました。すると訪問を歓迎するかのように門が大きく開いていました。それで中に入り、手入れの行き届いた競技場に感動しました。ところが、帰りがけに呼び止められ、入場禁止だと冷たく告げられました。招かれざる客と言われ、居心地が悪くなりました。
友のために
エミリー・ブロンテの小説「嵐が丘」には、聖書を使って人を批判する人物が登場します。彼は「いつも聖書をあさって自分に都合のいい言葉をかき集め、まわりの者には呪いをまき散らす」のです。ここで誰かの顔が浮かぶかもしれませんが、私たちも五十歩百歩、自分に甘く人に厳しくしがちではないでしょうか。
一方、聖書には、自己犠牲の人たちが登場します。モーセは、民が赦されないのなら、自らの名を神の書から消して欲しいと言い (出32:32)、使徒パウロは、同胞のためならキリストから引き離されても構わないと語りました(ロマ9:3)。人は元々独善的ですが、聖書が光を当てるのは、自分以上に他人を愛した人です。なぜなら、それがイエスの愛だからです。
イエスは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハ15:13)と言われました。私たちはまだ主を知らなかったにもかかわらず、主は「ご自分の者」を「最後まで愛し通され」(ヨハ13:1口語訳)、いのちを与えるために十字架にかかられました。
このように愛し愛されるために、私たちは神の家族になりました (ヨハ15:9-12)。私たちが人々にキリストの愛を惜しみなく注ぐとき、世界はキリストを垣間見ることができます。
懸命に愛を示す
ナビール・クレシはキリスト教に改宗した後、彼の元々の宗教についての本を書いてきました。その文章は相手に対する敬意に富み、自分が属する民族に対する愛を如実に示しています。その著作のひとつには、この本をまだイエスを信じていない妹にささげると語り「あなたとともに礼拝する日が来ますようにと、神にこい願っています」と短く力強く記しています。
過激な愛
結婚式のちょうど1週間前、サラの婚約は破談になりました。彼女は悲しみ、落胆しましたが、披露宴の準備を無駄にしないと決意し、行動を起こしました。贈り物用のテーブルを片づけ、来客名簿を見直して、地元のホームレス施設の入居者をパーティーに招待したのです。
惜しみない愛の表現
夫のアランは、結婚記念日に必ず大きな花束をプレゼントしてくれます。しかし、彼がリストラされた年には、さすがに、この贅沢なプレゼントを期待していませんでした。ところが、その19回目の結婚記念日、色鮮やかな花束が、いつもどおり私を迎えてくれました。夫は恒例の愛の贈り物を買うために、毎月少しずつ貯金していてくれたのです。
よそ者がよそ者を受け入れる
私たち夫婦は夫の姉の近くに住む必要があってシアトルの郊外に引っ越しました。見知らぬ土地で家も仕事もありません。地元の教会の人が大きな借家を見つけてくれたので、そこに住み、家主に許可を得て、いくつかの部屋を留学生に間貸ししました。それから3年間、よそ者の私たちが外国人を受け入れ、一つ屋根の下で寝食を共にしました。また、家の皆で聖書勉強会を開き、大勢の留学生たちと交わりました。
隠された美
カリブ海に浮かぶトバゴ島の海岸で、水中眼鏡をつけるようにと子どもたちを説得しました。水面だけを見ると、我が家の近くの淡水湖と変わらないからです。しかし、水中眼鏡をつけて水中を観察し、戻って来ると「色んな種類のきれいな魚が沢山いるよ!こんなに色とりどりの魚、見たことない!」と子どもたちは興奮気味でした。彼らは、もう少しで、水面下の隠された美を見逃すところでした。
愛を示す
子どもと一緒に新しい日課を始めました。毎晩寝る前にキャンドルに火をつけ、色鉛筆を準備します。そして神に、私たちの道を照らしてくださるようにお願いし、日記を取り出し、次の2つの質問に絵または文章で答えます。今日、愛を示せたのはいつですか。今日、愛を示さなかったのはいつですか。