私を手放さない愛よ
良い関係の中心には愛があります。聖書は、人を愛する人間になるようにとはっきり言っています。心を尽くして神を愛し、自分と同じように隣人を愛し、敵すらも愛しなさいと教えます。しかし、愛されていないのに愛するのは難しいことです。親にかまってもらえない子ども、夫または妻は自分に無関心だと感じている人、わが子に疎遠にされている老人などは、愛のない人生の苦しみを知っています。
ですから、愛されたいと思う人は思い出しましょう。神が豊かに愛されていることを。そして、その喜びを受け止めましょう。あなたのために十字架の上から注がれた神の愛によって、どれほど人生が変わったか考えましょう。神を信じるなら、神の愛があなたの欠点や失敗をおおって、一点の汚れもない義で包んでくださることに思いを巡らせましょう(ロマ3:22-24)。何ものもあなたを主の愛から引き離すことができないことを喜びましょう(ロマ8:39)。永遠に神の愛と過ごす場所が準備されていることを信じましょう(ヨハ3:16)。
ヨハネは「互いに愛し合うべき」だと語っていますが、そのとき彼は、「(神の)愛する者たち」と私たちに向かって語りかけています(Ⅰヨハ4:11、3:2)。神にどれほど愛されているかがしっかりと分かったなら、神のみこころどおりの愛に富んだ人になることは、今よりずっと簡単です。たとえあなたに愛を示さない人に対してでもです。
友情
友情は人生に与えられた最高の贈物のひとつです。真の友は、相手のために特別良いものをささげます。人生にとって最高に良いものとは、主を知り、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして主を愛するようになることです。ナチスの時代に殉教したドイツの牧師、ディートリッヒ・ボンヘッファーは「友情の目指すところはもっぱら、神があなたの友に何を望んでおられるかによって決定づけられる」と言いました。
ダビデの友、ヨナタンは真の友情のよい模範です。サウルがいのちをねらって出てきたとき、ダビデは流浪の身でジフの荒野に隠れていました(Ⅰサム23:15)。ヨナタンはホレシュにダビデを探しに行き、ふたりは再会します。ここで重要なのは、ヨナタンが来た目的です。彼は、ダビデが神にあって力づけられるように助けようとしました。聖書が「神の御名によってダビデを力づけた」と語るとおりです(16節)。
これがクリスチャンの友情の本質です。気が合ったり、共通の趣味があったり、話をしたり、笑ったりというだけでなく、永遠のいのちのみことばを相手の心に植えて、神の知恵を思い出させ、みことばで心をリフレッシュさせ、神の御名によって力づけるという関係です。
友のために祈り、友にかけるふさわしい言葉を主が与えてくださるように願いましょう。友が主とみことばから新たな力を得ることができるように、時にかなった言葉を、あなたの口に上らせてくださいますように。
差し出す
ずいぶん前のことになりますが、ある若者に車を貸してもらえないかと頼まれたことがあります。初めはためらいました。自分たちの車だし、それがないと困ります。けれども、すぐに貸すべきだと確信しました。他の人を助けるように、神が望んでおられたからです。それで、車の鍵をわたすと、彼は40キロ離れた教会まで運転していって、そこで中高生向けの伝道集会を開きました。その集会は祝福され、10代の若い人たちが救われました。
神の御子イエスは弟子たちに、「それをほどいて、引いて来なさい」と、他人のロバを連れてくるように言われました(マコ11:2)。もしも何か言われたら、「主がお入用なのです」と言うように指示されました。そうすれば、それを連れて行けることになっていたのです。そのロバは、私たちが「しゅろの日曜日」と呼ぶ日、キリストをエルサレムに運ぶために使われました。
ここに目を留めるべき教訓があります。私たちにはそれぞれ、大切にしているものがあります。それを手放すことなど絶対にあり得ないと思うものもあるでしょう。それは、新しい車とかお気に入りのコートといった持ち物かもしれませんし、たまの休日や自由な時間かもしれません。それが何であったとしても、あなたは誰の目から見てもそれを必要としている人のために、自ら進んで差し出せますか。
もし、聖霊が促されていると気づいたなら、ロバの持ち主がそうしたように、あなたの持ち物や時間を手放しましょう。そうすれば、神の栄光がふさわしく現われるでしょう。
私の唇の所有者は誰か
賛辞とお世辞の違いは、その動機であることが多いようです。賛辞は、相手の人の才能や行為を本心から評価し、その気持ちを伝えようとするものです。他方、お世辞の目的は、相手に良く思われることで、自分が何らかの得をすることを狙うものです。賛辞は相手を力づけようとするのに対して、お世辞は相手を操ろうとするものです。
詩篇12篇で、ダビデは当時の世の中を嘆きました。誠実な信仰深い人々が少なくなって、「へつらいのくちびると、二心」(2節)の人ばかりになっていたのです。彼らは「われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか」と豪語していました(4節)。
「私の唇の所有者は誰か」。心にもないお世辞を言ってうまく立ち回ろうと思うことがあったら、このように自問してみてください。唇が自分のものならば、好き勝手なことを言えますが、その所有者が神ならば、私の言葉は神のみことばを映し出すはずです。みことばは、土の炉で七回もためされて純化された銀のように、混じりけのない言葉だとダビデは語りました(6節)。
私たちの唇の所有者は誰かを示す良い方法は、次のようなダビデの祈りで毎日を始めることかもしれません。「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」(詩篇19:14)
イエスの目
子どもたちとアイスクリーム店で並んでいたとき、顔に傷のあるこわ面の人に気づきました。服は汚れてはいませんが、しわくちゃです。私は、その人と子どもたちの間に壁を作るように立ちました。話しかけられたときも、よく聞き取らず、目を合わせることもなく、少しうなずいただけでした。ところが、妻が一緒ではなかったので、その人は私たちを父子家庭だと思ったようです。「ひとりで子育てするのは大変だね」と言いました。私はその優しい口調に、思わず彼を見つめました。すると、彼も子ども連れなのに気づきました。そして、彼が妻を亡くしてどれほどになるかなどという話を聞きました。優しい話ぶりは、こわそうな外見とは対照的でした。
まさにガツンとやられました。また外見で判断してしまいました。イエスは、人を寄せつけないような外見の人と出会われました。今日の聖書のみことば(マコ5:1-20)の悪霊につかれた男性もそのひとりです。ところが、イエスはこの人を避けるどころか、彼の必要を満たされました。
私たちには罪の傷跡や、しわくちゃの品性(誠実になろうとしても、途中でつっかえてしまうので)があります。にもかかわらず、イエスは常に愛の目を注いでくださいます。私たちも心の中で人を見下したりせず、イエスの愛で人を愛すことができるように、主に助けていただきましょう。
ブラックボックス
民間機は「ブラックボックス」と呼ばれる記録装置をふたつ搭載しています。ひとつは飛行実績と飛行中の機体の状態を記録し、もうひとつは、乗務員と地上管制官との会話を記録します。この装置は極度の高温・低音に耐えるよう、耐熱性を備えています。また、水中から音を発して自らの存在を知らせる装置も内臓しています。飛行機が墜落すると、この装置は回収され、データが解析されます。航空安全の専門家たちは、このような惨事が繰り返されないことを願って、墜落原因を突き止め、過去のミスから学ぼうとします。
私たちクリスチャンも、過去の誤りに目をとめ、そこから学ぶ必要があります。例えば使徒パウロは、イスラエルの民はエジプトからカナンに向かう旅の途中で間違いを犯したとほのめかして、彼らが神を怒らせたために荒野で数多くの民が死んだ、と記しました(Ⅰコリ10:5)。そして、このように続けました。「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。」(新共同訳 11節)
聖書はすべて、神の霊感によって書かれたもので、私たちを教え、戒め、矯正し、義の訓練をするために有益です(Ⅱテモ3:16-17)。神が聖書のみことばによって導いてくださることを感謝しましょう。
大盤振る舞い
小さな教会の牧師だったときのことです。私たちの教会は、大きな困難に直面しました。教会堂が安全基準に満たなくなって、高額の改修工事を行わない限り、そこで礼拝できなくなると当局に通知されたのです。必死に献金を募ったおかげで改修工事の費用は工面できましたが、ある人の献金について気になった役員がいました。
その人は高齢の女性の教会員でした。この工事のために数百ドルを寄付したのですが、彼女にはそのような余裕のないことを私たちは知っていました。それで私たちは、「お気持ちには感謝しますが、ご自分の生活も大切にしてください」と言って返金しようとしました。彼女の生活は教会の状況以上に大変だと思ったのです。ところが、彼女はお金を受け取りません。それは、台所の調理用コンロを買いたいと思って何年もかけて貯めたお金でした。今はまだ鉄板の上で料理をしているのだそうです。そして、教会の家族と共に礼拝する場所は、自分にとって、台所のコンロ以上に重要だと主張しました。私たちは、彼女の大盤振る舞いな献金にびっくりしてしまいました。
イエスはやもめが宮の献金箱に二枚の銅貨(最小価値の硬貨)を投げ入れるのをご覧になり、このやもめを褒められました(ルカ21:3-4)。それは献金が高額だったからではなく、彼女が所持金すべてをささげたからです。こういう献金が、神に栄光を帰すささげ物ですが、それだけでなく、私たちがいただいた大きな贈り物、すなわちキリストを思い出させてくれるささげ物です。
イエスのチーム
オークランド・アスレチックスは2001年のシーズン後、3人の主力選手を失いましたが、資金不足で大型補強ができませんでした。そこでゼネラルマネージャーのビリー・ビーンは、統計データを利用して選手を集めました。この選手たちは他球団で「全盛期を過ぎた」とか「技術不足」と判断された、知名度の低い人たちです。ところが、この落ちこぼれ軍団は20連勝を含む103勝を上げ、2002年の地区優勝を果たしました。
この事実で思い出すのは、イエスが弟子を選ばれたときのことです。イエスは荒くれガリラヤ人漁師、熱心党員、さらには、レビ(マタイ)という嫌われ者の取税人をご自分のチームに選ばれました。これは、「神は…強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです」(Iコリ1:27)という聖書のみことばを思い出させます。神はこれらの献身的な人たち(ユダを除く)を用いて、ある動きをスタートさせられました。それは世界に劇的な影響を与え、世の中を全く違ったものにしていきました。
私たちは、この教えから学ぶことができます。私たちは、人気、影響力、財力のある人を求め、地位の低い人や肉体的に劣る人を軽視しがちです。
しかし、イエスはすべての人を平等に扱われ、世の中で認められていない人たちも自分のチームに加えられました。私たちもまた聖霊と導きによって、すべての人を平等に見ることができます。
見られている
高校時代の挫折体験から数十年がたちました。当時、バスケットボールは私にとって非常に大切なことでした。中学時代から代表選手で、何百時間も練習してきました。ところが高校最後の年、私は代表選手に選ばれなかったのです。失意のどん底に突き落とされました。
私は心乱れたまま、記録係としてチームに同行しました。、そして、州大会を戦う仲間が、リバウンドボールを取ったりシュートを入れたりするのを記録しました。正直なところ、チームメートたちが私をどんな目で見ているのか、考える余裕すらありませんでした。日々をこなすだけで、精神的に精一杯だったのです。
そういう状況だったので、当時の同級生たちが弟に言ったことを聞いて驚きました。彼らは、「クリスチャンは違う」、「あれがキリストの姿なんだね」と言っていたそうです。私は、自分の状態を覚えていないので、「私を見習ってください」と言うつもりはありません。むしろ、自分が意識していようがいまいが、私たちは人に見られている、と言いたいのです。
パウロはテトス3章1~8節で、神が造り変えてくださる人生がどのようなものなのか、説明しました。それは、イエスを通して新生し、注がれた聖霊によって更新された人生です。その新生と更新の結果、敬意、従順、親切という品性が、その人に与えられました。
私たちが聖霊に導かれた人生を生きるなら、神は私たちを通して、ご自分を現されます。