世の光
私の好きな絵画のひとつは、英国オックスフォードのキーブル・カレッジのチャペルにあります。ウィリアム・ホルマン・ハントによる「世の光」と題された絵画で、イエスが手にランタンを持ち、ある家の扉を叩く姿が描かれています。
扉を開ける
ジョナサンは脳性まひで生まれ、話したり、思いを伝えることができませんでした。しかし母親のシャンタルはあきらめませんでした。そして息子が10歳の時、目とアルファベット表で会話する方法を見つけました。「扉が開きました。彼に何でも聞けるようになったのです」と彼女は語ります。現在、ジョナサンは目を使って読み書き、そして詩を書くこともできます。家族や友だちと話せるようになった感想を聞くと「みんなを愛しているって伝えられるから嬉しい」と答えました。
解放される
村の子だった私は、鶏の習性を知っていました。鶏を捕まえて押さえ、その後ゆっくり放すと、鶏は逃げられるのに、うずくまったまま動きません。まだ捕まっていると思い込んでいるのです。
盲人の必死の願い
数年前、私が遠くのものを見にくそうにしていると気づいた友人が、自分の眼鏡をはずして「これを試して」と言いました。その眼鏡をかけると驚いたことにはっきり見えるではありませんか。それで検査をして眼鏡の処方箋を書いてもらいました。
交わりが途切れる
全地が暗くなり、やがて悲しみにあふれた叫び声が響きました。十字架のもとにいたイエスを愛する人たちの嘆き声も、イエスの両側ではりつけになった犯罪者のうめき声もかき消してしまい、全ての人が驚いたに違いありません。ゴルゴダの丘で十字架にかけられ、イエスは苦悩と恥と絶望の中で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。それは「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です(マタ27:45)。
どこの出か
初対面の人に出身を尋ねることがありますが、故郷と呼ぶ場所をひと言で答えられる人は多くないでしょう。また、ややこしい説明をしたくない人もいます。
迷い出したが、見つけられ
義理の母が親戚と買い物に行って行方不明になったと聞いて慌てました。彼女は認知症で何をするか分かりません。その辺りにいるか、家に帰れると思って適当なバスに乗ってしまうか…最悪の事態を恐れて「神よ、見つけてください」と祈りながら捜しました。数時間後、彼女は何キロも先の路上で発見されました。本当に神のあわれみでした。そして数か月後、再び祝福されました。80歳でイエス・キリストを自らの救い主に迎えたのです。
子どものように
ずいぶん昔のことですが、就寝前の祈りの後、2歳の娘が「ママ、イエスさまはどこにいるの」と尋ねました。妻は驚いて「天国よ。それから、どこにでもよ。今ここにもおられるわ。お願いすれば、あなたの心の中にもいてくださるのよ」と言いました。「イエスさま、私の心にいて欲しい」と娘。「いつかお願いしましょうね」と妻が応じると、娘は「今、お願いしたい」と答え「イエスさま、私の心に来て、いっしょにいてください」と祈りました。それが彼女の信仰の始まりでした。
クリスマスの伝統
皆さん、ご存じですか。クリスマス時季に見かける杖の形の紅白のキャンディーはドイツのケルンが発祥地です。ポインセチアはメキシコ原産です。クリスマスケーキでおなじみのブッシュド・ノエルの「ノエル」はフランス語、ヤドリギは英国の伝統です。