主は喜ぶ
祖母が最近、昔のアルバムを送ってくれたので目を通していると、一枚の写真に目が留まりました。私は2歳で暖炉の横に座っています。父は母の肩に手を回し、ふたりは笑顔で私を見つめています。私はそれを毎日使う鏡台の上に飾りました。これは両親の愛を思い出させてくれますが、実は、良い両親の愛も完璧ではありません。私は、人間の愛は不完全でも、神の愛は完全であることを忘れないために、この写真を取っておくのです。
かくれんぼ
見つかると思うとドキドキしました。いとこがすぐそこまで来ています。あと3歩、2歩、そして「みいつけた!」と笑いました。かくれんぼは幼い頃の楽しい思い出という人は少なくないでしょう。しかし、人生には見つかって欲しくない、むしろ「逃げたい」と本能的に感じる時があります。見つかれば、嫌われるかもしれないからです。
イエスは知っておられる
息子が車の後部座席で「パパ、今、何時?」と尋ねました。「5時30分 だよ」と答えつつ、次に何が来るか分かっていました。案の定、やっ たという笑顔で「違うよ。5時28分だ」と言ったのです。親だからこそわかるという嬉しさがありました。
恐れのない愛
私は長い間、自分を守るために「恐れ」を盾にし、それを言い訳に、何かに挑戦したり、夢を追いかけたり、神に従うことを避けていました。何かを失ったり、誰かに嫌われたりする恐れは、神や人と深い関係を築くことを妨げました。それは私を自信のない嫉妬深い妻、心配症で過保護な母親にしました。しかし、神に深く愛されていることを学び続けていくうちに、神とのかかわり方、人とのかかわり方が変わりました。神が面倒を見てくださると信じられると、安心して自分より他人の必要に配慮できるようになりました。
ぎゅっと抱きしめる
溢れんばかりの愛情を詰め込んだ大きなクマのぬいぐるみが孫に贈られました。孫は初めは不思議がり、次には驚き、そして好奇心にかられて手を出しました。ぷっくりした指で鼻をつつくと、クマが腕の中に倒れてきて大喜びし、自分の頭をクマの柔らかい胸に押し当て、ぎゅっ と抱きしめました。ふかふかのぬいぐるみに自分をうずめ、満面の笑みを浮かべました。ぬいぐるみが愛したり喜んだりはできないと、幼子は知りません。それで、無邪気にクマの愛を感じ、自分もクマを愛していました。
愛は捜し続ける
携帯電話やポケベルが無い時代、私は19歳で実家から千キロ以上離れた土地に引っ越しました。毎朝、母に電話する約束でしたが、ある時、それを忘れて出かけました。その夜、ふたりの警察官が家に来ました。それまで電話を忘れたことが無かったので、母が心配したのです。何度電話しても話し中だったので、警察に様子を見て来て欲しいと頼んだそうです。警察官は「愛情深く捜し続けてくださるお母さんで幸せですね」と言いました。
来て、受けなさい
裏のぶどう畑の柵越しに外をのぞくと、隣接する公園の周りを人々が走ったり、歩いたりしているのが見えました。若くて元気だったときは、自分もああだったと思うと、急に気分が塞ぎました。後で聖書を読んでいると「ああ。渇いている者はみな、…出て来い」(イザ55:1)というみことばが目に留まり、私は渇きというものは人生につきものなのだと改めて思いました。どんな良いことやものでさえ、人を完全に満足させることはできません。たとえ、私がヒマラヤのシェルパのような強健な脚を持っていたとしても、別のことが面白くないでしょう。
大切な時
救急車の扉が閉まりかけている時、薄れていく意識の中で、車外で妻に電話をしている息子の名前を呼びました。息子によれば、私は「ママに愛していると伝えて」とゆっくり言ったそうです。
野の花のように咲く
生後2か月の孫は、見る度に少しずつ成長しています。最近、彼をあやしていると、私をじっと見て、にっこりしました。突然、私の目が涙で溢れました。ずっと昔、我が子が初めて笑ったときの喜びが、よみがえってきたからかもしれません。ずいぶん前のことですが、つい昨日のことのように感じます。人生には言葉では説明できない瞬間があるものです。