小さな約束
末の娘と私はよく階段である遊びをします。階段を上る娘の後を追いかけて、彼女が上り切る前に、軽くつねるのです(「軽く」ですよ)。上り切ってしまったら、娘の勝ちです。しかし、遊ぶ気分でない時、娘はきっぱりと「つねらないで!」と言います。すると私は「分かった。つねらない。約束する」と答えます。
記念の石
フェイスブックには時々、何年か前に投稿した事が「思い出」として表示されます。それは例えば、弟の結婚式の写真、ひいおばあちゃんと遊んでいる我が子のビデオなどで、私を笑顔にしてくれます。しかし、時には深い感慨にひたらせるものもあります。義理の兄が化学療法をしていたときに自分が書いた言葉や、脳の手術をしたときの母の写真などです。これらを見ると、困難な状況の中に、神の御臨在が確かにあったことを思い出します。これらの「思い出」は、感謝をささげ祈るように、私を促してくれます。
専門家は何と言っている?
ボストングローブ紙のジェフ・ジェイコビー氏は、専門家はとてつもない間違いをするという内容の記事を書きました。近代史を見ると彼の指摘は当たっています。例えば、偉大な発明家のエジソンは、トーキー映画が無声映画に取って代わることは無いと断言しました。ヘンリー・フォードは1928年に、人類はこれほど知的になったのだから二度と戦争はしないだろうと宣言しました。しかし、これらの予測は残念ながらはずれました。天才にも限界があるのでしょう。
どんな時でも神を信頼する
けがの後遺症で慢性的な痛みに20年以上も苦しめられています。激痛の中で神を信頼し賛美するのは容易ではありません。しかし、耐えがたい状況の中でも、神の臨在は私を慰め力づけてくれます。神はとこしえに良きお方であり、御力は無限、御恵みによって平安をくださいます。不信仰の誘惑に駆られるとき、私はシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを思い出します。彼らは非常な逆境の中で真の神を礼拝し、神がともにおられることを信じました。
待っている
子どもたちは幼い頃、クリスマスまであと何日かと繰り返し尋ねました。家にはアドベント・カレンダーがあって答えは明らかでしたが、彼らはその日を待ち焦がれていたのです。
コミットする
鶏と豚が食堂を始めようとしました。鶏がハムエッグを出そうと言うと豚は「いやだ。僕はコミットさせられるのに、君は手を貸すだけじゃないか」と反対しました。卵を産めばよい鶏に対しハムにされる自分…。この寓話は、豚がコミットの意味を良く理解している点で私に示唆を与えてくれます。神に従うとはコミットすることだからです。
順番を待って
桜の古木が枯れそうなので樹木医を呼んだところ、すぐ手当てが必要だと言われました。妻は木に向かって「順番を待ってね」とつぶやきました。最近、厄介な事ばかり起こっているからです。
恵みを数えて
私たち夫婦は真剣に離婚を考えたことがありました。しかし、人生を完全にキリストに明け渡すとふたりで決め、やり直そうと誓いました。私たちは賢明な助言を求め、各々が聖霊によって変えられ、夫婦としても作り変えられるよう求めました。神は、健全なコミュニケーションを取る力をつけてくださいました。何が起ころうとも、神を愛し信頼することを教えてくださり、夫婦が愛し信頼し合うことについても学ばせてくださいました。
神に根差す
新居に移った友人は藤を隣家との塀際に植え、5年後には紫色の花でいっぱいになることを楽しみにしました。そして20年間、この花を楽しみつつ、枝を切り込み、熱心に世話をしてきました。その藤の木が突然枯れてしまいました。隣家の住人が庭に除草剤をまいたことが原因だったようです。土の中に広がった薬剤の影響で、きっと藤も根から完全に枯れてしまったのだ、と友人は思いました。ところが驚いたことに、翌年、彼らは藤の芽が数本、土から吹き出ているのを発見したのです。