結局、最後には
アイルランドの聖ブレンダンを題材にしたフレデリック・ビュークナーの小説で、主人公が仲間の修道士ギルダスの片足は、膝から下がないと気付く場面があります。ギルダスはつえを取ろうとしてバランスを崩し、ブレンダンが支えます。ギルダスは、「私は闇に包まれた世界と同じぐらい傷ついている」と言います。ブレンダンは答えます。「もしそうなら、私とて同じだ。倒れそうになったら互いに手を貸し合う。結局のところ、それが唯一の意味ある働きなのだろう」
神の赦し
イスラエルのヘクト博物館で、4歳の少年が展示品を誤って割ってしまいました。3500年前の青銅器時代の珍しいつぼです。ところが何の弁償も要求されず、つぼの修復後、博物館に招待されました。同館のロイー・シャフィール氏は、この寛大さの理由を、修復作業に対する世界の関心を高め、少年の歴史と考古学に対する関心に寄与する可能性があるから、と説明しました。何らかの前向きな結果に対する期待です。
健全に成長する
子どもの頃、海賊の物語が好きでした。彼らの冒険に想像力を大いにかき立てられました。私は今、悪名高い海賊「黒ひげ」(本名エドワード・ティーチ)の本拠地があった地域に住んでいます。彼の有名な旗艦「アン女王の復讐(ふくしゅう)号」は、この沖合で座礁しました。
鉄による研磨
プロジェクト・マネージャーのルイーズは、副業で引き受けた仕事にうんざりしていました。クライアントもデザイナーもマイペースすぎます。どうしてこうなるの、と忍耐が試されているようでした。しかし、数週間が経ったころ、箴言27章を読んでいて17節に目が留まりました。「鉄は鉄をもって研磨する」
嵐を鎮める
私の3歳の姪は、状況にかかわらずイエスを信頼できることを理解し始めています。ある雷雨の夜、彼女は就寝前に両手を合わせ、目を閉じて祈りました。「イエスさまは、ここに一緒にいます。私のことが大好きです。止まれと言えば、風も雷も止まります」
神の思いやり
神は本当にこんなに大勢の心配ができるのかしら。初めての海外。駅の雑踏の中で、そんな疑問がふと頭をよぎりました。10代の私は、世界の大きさに圧倒されていました。自分がちっぽけに感じられ、こんなに多くの人々を神は本当に愛せるのだろうかと思いました。
神にお任せする
スマホを使ってチェックインしようと、空港の自動受付機に近づいて気付きました。スマホがありません。タクシーに置き忘れたのです。どうすれば該当の車の運転手に連絡が取れるでしょう。
祈りの姿勢
ジミーは長年の持病のために痛みがひどくなっていました。毎朝、聖書を読んで黙想し、祈りをささげる習慣を続けたいと願っていましたが、右を向いても左を向いても、どんな姿勢で座っても、体がひどく痛みます。ついにやけを起こして椅子を降り、膝を折ってしゃがみ込みました。すると、このひざまずく姿勢が、ひどい痛みを和らげてくれたのです。その後、ジミーは毎朝、ひざまずいて神と時間を共にしました。祈りをささげている時は、心地良いとさえ思いました。
神の道は愛
時間に余裕ができたので、しばらくは可能な限り人に仕えて過ごそうと考えていました。しかし、人の手伝いをしている最中に転倒し、腕を3カ所骨折しました。突然、逆の立場になったのです。いろいろな人が、お見舞いに来てくれたり、電話やメール、カード、花、好物のチョコレートをくれたりしました。祈ってくれたり、食事を持ってきてくれたり、お使いも頼まれてくれました。親族や友人、教会の人たちに、本当にお世話になり、心が温かくなりました。まるで神が「じっとしなさい。あなたは助けが必要です。人を支援するさまざまな形をまず体験しなさい」と言われたようでした。私は、この人たちのおかげで、心から仕えることをさらに知り、そういう人たちの存在や行為を神に感謝しました。