悲しむ神
トルコ東南部が、2023年2月、大地震に見舞われた時、衝撃的な報道写真が世界を駆け巡りました。がれきの中から伸ばされた娘の手を握る男性の姿です。ベッドのマットレスの端が見えています。男性が握りしめる手には生命がなく、彼の険しい表情には深い悲しみが如実に表れていました。
石のスープ
メギーは薬物常用者で、10年にわたって、刑務所を出たり入ったりしていましたが、ある時、ハンスと出会いました。ハンスは、薬物常用が原因で片手を失いかけたことがあり、「あの時初めて神に泣きついた」と言います。そして神に助けられて薬物から足を洗い、薬物常習者の再生を支援する働きに加わりました。
神に委ねる
ブライアンが心臓病の専門医の診察を受けている間、友人は待合室で祈っていました。1時間以上経って戻ってくると、手にした書類の束をテーブルに広げて深刻な病状と治療の選択肢について語りました。二人は祈りのポイントを話し合い、知恵を求めて共に祈りました。そしてブライアンは「何があっても僕は神の御手の中にある」と言いました。
母の回想
ドナは3人の子の母ですが、母の日が大嫌いだったと言います。母としてのふがいなさを意識させられる日だったと言うのです。
全き信仰
長期入院中の3歳の男の子シャイロのために多くの人が祈っていましたが、やがて脳死状態となりました。母親のセシィは言いました。「神様にはシャイロを癒やし、家に帰らせる力があると分かっている。召天という形で癒やされる場合があることも受け入れている。でもね、時々、全き信仰がないのかしらと怖くなる」。私は答えました。「神は全知のお方。あなたは全てを神に委ねている。それこそが全き信仰ですよ」。数日後、シャイロは天に召されました。セシィは悲しみに暮れながらも、神に感謝し、祈ってくれた多くの人たちにも感謝しました。そして、今も神が良いお方だと信じているし、神は神だ、という真理にも平安がある、と語りました。
永遠に失われない喜び
ノルウェーのある村に、2014年、道を渡る際にふざけることを促す標識が立てられました。その目的は、ふざけて歩く本人や周りの人が一時の笑いを楽しみ、村を明るくすることでした。この種の「おふざけ」は、落ち込んだ心を一時でも和ませ、笑顔をくれます。
神の視点
牧師のタン・フリッピンは、2018年、サイクリング中の事故で股関節を骨折し、入院しました。そして、脳のCT検査をしたところ、何と前頭葉に大きな悪性腫瘍が見つかったのです。その後、別の腫瘍も見つかり、骨髄移植を含む長期の闘病が始まりました。フリッピン牧師は「脳腫瘍が発見されるために、神は事故を許された」と信じています。
神を真に信頼する
保護猫を引き取った人の話です。猫がお腹を空かせているようなので、水とキャットフードをキッチンに用意し、その場所まで連れていこうとしました。やせ細った猫は、最初のうちついていきましたが、途中で立ち止まり、それ以上動こうとしません。その人を信用してついていけば、食べ物が待っているというのに。
神の愛は尽きない
高齢で病気の父親を在宅介護することになり、ジョシーの生活は激変しました。また父の薬は高額でした。フルタイムで働きながらの介護、病状の悪化に伴う数々の決断に、彼女は疲弊していきました。「どうすれば体力と知恵、周りの支援、そして父に対する愛を絞り出せるのだろう」と思いました。