イエスは涙を流された
グリム童話の「ガラスの棺」を読んでいると、友人が覗き込んで「うっとうしいタイトルねえ」と言いました。「棺」と言う言葉に反応したのです。人は自分の死の必然性を突き付けられたくないかもしれませんが、それでもみんな、必ず死にます。
思いがけない訪問
イタリア人画家カラヴァッジョ(1571-1610)は、聖人を描くときに、普通の労働者をモデルにしました。それで、絵を見る人たちは、自分が絵の一部のように感じたのです。「エマオの晩餐」は、立っている宿屋の主人の横で、自分たちと食卓をともにしている人が復活されたイエスだと気づいたふたりの弟子を描いています (ルカ24:31)。ひとりは椅子に手をついて立とうとし、もうひとりは驚きのあまり両手を大きく開いています。
イースターの始まり
小さなことですが、イースターの物語でいつも心に留まることがあります。それは、イエスが十字架で受けた傷跡を残した身体でよみがえられたという事実です。どんな身体でよみがえるかは自由だったはずなのに、イエスは目で見たり、手で触ったりできる傷跡を残したままで、よみがえられました。なぜでしょう。
死亡告知記事
スティグ・カーネル氏は亡くなる前、新聞の死亡告知欄には普通のようにではなく、「私は死んだ」と簡潔に記して欲しいと葬儀屋に頼みました。そして彼が92歳で亡くなると、そのとおりになりました。ところが、このまれにみる単純で大胆な死亡告知は世界中の新聞社の目に留まり、こんなことをした人はどんな人だったのだろうと、国際的な注目を集めました。それは本人が予想だにしなかったことです。
私のもとに来なさい
シャルロット・エリオットは1834年に「ほふられたまいし」
あの人は誰だ
大学生がイエスをどのように捉えているかを、ケリー・ステインハウスがハーバード広場で調査したところ、学生たちの答えは好意的なものでした。ある学生は、イエスは「弱者の世話をした人だ」と答えました。またある学生は、「かっこよく生きた人だ」と答えました。一方で、「イエスは救い主だとは思わない。ただの人間だ」とか、「『私だけが天国に至る道だ』という宗教は受け入れられない」といって、イエスをシャットアウトする学生もいました。実際、イエスは誰なのかと熟慮する人も、イエスを門前払いする人もいます。
死に打ち勝つ
私は先日、「アナスタシス」という題名の古いフレスコ画に深く感動しました。 アナスタシスとは「よみがえり」という意味で、死を打ち負かしたイエスの大勝利を描いています。墓から出てきたばかりのイエスが、アダムとエバを棺桶から引き出して永遠のいのちに導いておられます。彼らの堕罪の結果としてもたらされた肉体とたましいの死が、キリストのよみがえりによって反転されたことを実に見事に表しています。この絵の素晴らしさは、何と言ってもそこです。
毎日がイースター
幼稚園で教えている友だちが、子どもたちのかわいいおしゃべりを耳にしました。マリアがみんなにこう質問しました。「かみさまが大好きな人はだぁ~れ?」「は~い!」「ぼくも!」「わたしも!」するとビリーが言いました。「ぼくはイエスさまが好きだな。」「だけどイエスは死んじゃったよ」とケリーが反論します。しかし、ビリーは答えました。「そうさ。でも、イースターのたびに生き返るんだ。」
ああ、素晴らしい日!
我がチームは破れ、優勝の夢は、ついえてしまいました。寒空に雲が垂れ込めた翌朝、私は出勤しようと車に乗り込みました。大したことは何もないのに、何となく暗い気分の月曜日でした。