Month: 5月 2017

真の友であること

詩人サム・ウォルター・フォス(1858-1911)は「道路わきの家」と題した詩で「道路わきの家に住ませてもらえるなら、皆の友人になりたい」と書きました。私も同感です。私は、人にたたかれ、不当に扱われ、傷ついた旅人、幻滅という人生の重荷を負っている旅人の友となり、彼らが元気を回復し爽やかに旅をつづけて行けるように、温かくもてなしてあげたいのです。私は、彼らの問題を解決することも、彼らの弱点を直すこともできません。しかし、彼らを祝福することはできるはずです。

永遠の花

息子のザビエルは幼い頃、母親に花をあげるのが大好きでした。摘みたての雑草もパパと店で買ってくれた花も、母である私は喜んでもらい、枯れるまで部屋に飾っていました。そんな ある日、ザビエルは美しい造花の花束をくれました。ガラスの花瓶に入った布製の黄色いヒマワリ、白いカラー、紫色のアジサイです。そしてにっこり笑って「ママ、この花は永遠に枯れないよ。僕もママを永遠に愛しているよ」と言いました。

種を蒔く

ある人からメールが届きました。それには「あなたのお母さんは、 1958年、私が小学1年生の時の担任でした。彼女は優しい先生でしたが、厳しくもありました。詩篇23篇を暗記させ、みんなの前で暗唱させました。私は嫌でたまりませんでしたが、それが1997年にクリスチャンになるまで、私と聖書との唯一のつながりでした。詩篇23篇を読むと先生の思い出がよみがえってきます」とありました。

キャンプで読む詩篇

私たち夫婦は野山を散策し草花を至近距離から撮影します。それらは驚くほど多様で美しく、まるで世界を顕微鏡で見ているようです。キノコにも驚かされます。それは一夜にして地面に現れ、色彩豊かな点々で森を明るく彩ります。

助け主

実家を1600キロも離れた学校に入学が決まり、ひとりで飛行機に乗ったときは不安でした。しかし、聖霊が来て助けてくださるとイエスが約束されていたことを思い出しました。

バイオレットと歌う

バイオレットは高齢でジャマイカの障害者施設で暮らしています。 10代の若者たちが見舞うと、真昼のむし暑い部屋の中、文句も言わず、満面の笑みを浮かべて歌いました。「走って、跳ねて、飛んで、私は、主をほめたたえます!」バイオレットには両足がありません。しかし、まるで走っているかのように腕を前後に振りながら歌い、周りにいた人は涙を浮かべました。バイオレットは「イエスさまは私を愛しておられて、天国へ行ったら走る足をくださるのよ」と言いました。

光の無い道

休暇からの帰り道、オレゴン州中部の荒野を通りました。夕暮れどきの2時間余り、私たち家族の車は深い渓谷を抜け砂漠の尾根道を走りました。その間、すれ違う車は20台も無かったでしょう。やがて月が登りましたが、山の峰があるので見えたり見えなかったりします。娘は「神のご臨在と同じね」と言いました。私は「神がおられると見えなくてはいけない?」と尋ねました。すると彼女は「そんなことはないわ。でも見えたら確実に助かるわ」と答えました。

伝えずにはいられない

裁判の証人は傍聴人とは違います。彼らは判決を左右する裁判の積極的な参加者です。同じことがキリストの証人にも言えます。私たちは、イエスの死と復活という絶対的に重要な真実に関する積極的に証言する参加者であるべきです。

手に負えない

聖書のみことば:ルカ23:33-43

イエスは彼に言われた。「まことにあなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。——ルカ23:43

イスラエルで110歳の遊牧民の男性が心筋梗塞の発作を起こしてベエル・シェバ病院に収容されました。医師団は、彼が非常に高齢であったにも関わらず、懸命の努力をしました。その結果、この男性は、血栓を溶かす薬で治療できた最高齢の患者になりました。病院の関係者は、彼はヤギの世話をするためにネゲブ砂漠に帰って行ったと伝えました。

この110歳の男性が受けた親切な行為は、打ちひしがれた人たちを愛されたイエスの御姿をほんの少しだけ映し出しています。イエスは社会的障壁を乗り越えて、重い皮膚病の患者たちや社会的に見捨てられた人たちを助けられました。その愛と力は、社会が良いと定めたものを遥かに超えていました。

イエスは十字架の上で極度の苦しみにあえぐときでさえ、死に逝くひとりの人に手を差し伸べられました。その男は罪を犯して十字架につけられ、あと数時間で永遠の滅びに入ろうとしていました。しかし、彼が助けを求めたとき、イエスは答えて言われました。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

救いようのないという人が周りにいますか。あるいは、あなた自身が、もうダメだと思っているかもしれません。年をとりすぎているとか、罪が大きすぎるとか、弱すぎるとかで、手に負えないと思われている人を救うことは、聖書の神が専門としていることです。

神の強さは、私たちの弱さの中に最もよく現われる。