心配しておられるのか
聖書のみことば:マルコ14:32-42
イエスは深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」——マルコ14:33-34
ある年、3人の友人が次々に亡くなりました。初めのふたりの死が3人目を送る体験を楽にしたかというと、そんなことはありません。しかし、ラザロの死に涙されたイエスを思うと慰められます(ヨハ11:32-36)。というのは、神も私の友人を愛しておられたのですから、その死をどう感じておられるか、それを知る手がかりになるからです。
イエスはゲッセマネの園で「主よ、あなたが私を選んであなたのために苦しみを受けるようにされたことを感謝します」とは祈られませんでした。むしろ、悲しみ、恐れ、見捨てられること、そして絶望に近づくことを体験されました。ヘブル人への手紙は「死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって」(ヘブ5:7)訴えたと記しています。
イエス自身が私たちを悩ませる疑問、つまり「神は心配しておられるだろうか」という疑問をもったと言ったら言いすぎでしょうか。「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」(詩22:1、マコ15:34)という詩篇の引用には、他にどんな意味があるでしょう。
しかし、イエスは耐えました。父なる神は愛の神で、そのときの事態がどのように見えたとしても信頼することのできるお方だと知っていたからです。イエスは「神は心配しておられるだろうか」の問いに対し、その究極的な答えが「はい」であることをはっきりと実証されたのです。
神の御手がすべてを治めておられると知るなら、その神の御手にすべてを委ねることができる。
荒れ地が美しい庭に
聖書のみことば:ヨブ記42:10-17
主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。——ヨブ記42:12
春は、物事が常に目に見えているとおりとは限らないことを悟らせてくれます。すっかり枯れ果てて絶望的にさえ見えたところに、生命が芽吹きます。寒々とした裸の森が、緑豊かな景色に生まれ変わります。
冬の間、着物を求めているかのように裸の腕をのばしていた木の枝たちが、突然、緑のドレスをまといます。しぼんで地面に落ちてしまった草花も、「死んでないぞ」と言わんばかりに、土の中からむっくりと起き出してきます。
聖書にも絶望的な状況が描かれています。そのひとつは、ヨブという裕福な人の話です。ヨブは「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている」人でした(ヨブ2:3)。その彼を災いが襲い、すべてを奪っていきました。ヨブは苦難の中で「私の日々は…望みなく過ぎ去る」と言いました(7:6)。ヨブも彼の友人も、この災いは神がヨブに罰を当てたのだと考えましたが、それは全くの間違いでした。神は、ヨブの正しさはサタンに攻撃されても揺るがないと信じておられました。後日、神はヨブの生活も希望も回復させられました。
毎年、必ず春がやってくることは、絶望的な状況にいる人にとって慰めです。神がともにいてくだされば、絶望というものはありません。どれほど悪い状況に見えたとしても、神はそれを用いて、美しく栄光に満ちたものを作ってくださいます。
神がともにいるなら、どれほど絶望的に見えても大丈夫だ。
順送り
聖書のみことば:Ⅱコリント1:3-7
あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。——Ⅱコリント1:7
長い間、人を見てきて気づいたことは、苦しみを体験した人たちは、苦しんでいる人たちにすぐに手を差し伸べるということです。子どもを亡くして苦しんでいた若い夫婦に手を差し伸べたのは、自分たちも子どもを亡くしたことのある夫婦でした。収入の当てを失った夫婦に即座に手を差し伸べたのは、過去に家や家財を差し押さえられ処分されてしまった夫婦でした。私は、互いに支え、互いに励まし合うキリストのからだを何度も目にしてきました。このクリスチャンたちは学びました。自分の辛い体験を用いて、同じような困難の中にいる人たちに手を差し伸べることができるのだと。
身体を壊したことがありますか。家族を亡くしたことがありますか。服役したことがありますか。ひどい扱いをされたことがありますか。
すべての試練について、神は約束しておられます。最悪の体験からでさえ、神は良いものを私たちの内に生み出してくださいます(ヤコ1:2-4)。その鍵は、神がくださった慰めを同じ苦しみの中を通っている人たちと分かち合うことです。
パウロがコリント人への手紙第二1章3~7節で述べているように、救い主は私たちの苦しみを知っておられ、私たちを慰めてくださいます。そして、その慰めを他の人たちに順送りするなら、神がほめたたえられます。私たちはこうして、主に誉れを与えます。
苦しんでいる人をひとりで放っておいてはいけません。試練に見舞われている人がいるなら、神に助けていただいて、神のご臨在のうちに導いてあげましょう。それが最も確かな慰めです。
神が私たちを慰めてくださるので、
私たちは他の人たちを慰めることができる。
神は十分である
聖書のみことば:マタイ14:22-33
イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。——マタイ14:27
打ち寄せる失望の波、果てしなく続く借金の返済、健康の衰えや病気、人間関係のトラブルなど、人生の問題に圧倒されて落ち込んでしまうときがあります。絶望的な気分になることさえあります。このような状況は、キリストの弟子たちにも起こりました。私にも起こったことがありました。
主イエスが断定形で語ってくださるみことばを読むと、私たちは安心し、慰められます。イエスがいてくださるなら十分だと、希望を持つことができます。そんなみことばのひとつは、マタイの福音書4章の場面です。サタンの誘惑に対してイエスは「……と書いてある」(4、7、10節)と語られます。イエスはこうして、みことばは真実であり、どんなに大きな誘惑や試練にも打ち勝つことができるのだと証明しておられます。また主は、「しっかりしなさい。わたしだ」(マタ14:27)と言われて、ご自身が激しい嵐や荒れ狂う海を静めるのに十分な存在であることを、おびえきった弟子たちに示されました。
イエスは十字架に架けられたとき、「完了した」(ヨハ19:30)と言われました。こうしてご自身の死は、私たちが罪の負債を赦され自由になるために、十分な贖いであることを断言されました。
どんな状況の中にも、イエスは慈愛に満ちて臨在しておられます。そして、私たちを確実に、十分に守ってくださいます。
神に愛されている人も試練に遭う。しかし神の愛は、試練を耐え抜けるように私たちを助ける。
待つことの重荷
ここ数年で親族のふたりが大きな病気を患いました。彼らを看病する上で最も大変だったのは、常に先が見えないということでした。私たちは医者の明確な言葉を期待しましたが、物事はそれほど単純ではありません。白か黒かではなく、もう少し様子を見ましょうということがしばしばでした。不確実性というのは大きな重荷です。次の検査でどうなるのだろうと常に不安でした。死が私たちを分かつまでに、どれだけの時間があるのでしょう。ガンのような病気は、私たちが死に逝く存在だという現実を突き付けます。人はいつかこの世を去っていきます。
暗闇で賛美
ミッキーは失明しつつありましたが「神を賛美しつづけるつもりだよ。だって、私のために大きなことをしてくださったのだから」と言いました。
赦すべきか
教会堂の掃除に行くと向こうで泣いている人がいました。私に意地悪をしたことのある人です。それで、気づかない振りをして掃除機をかけました。嫌われているのに声をかける必要は無いでしょう。しかし自分がどれだけ神に赦されたのかを思い出し、聖霊に促されてそばに行くと、彼女の赤ちゃんが何か月も入院していると言うのです。私たちは抱き合って泣き、赤ちゃんのために祈りました。そして今では性格の違いを乗り越えて仲良くなりました。
神が思い出を用いられる
喪失や失望の経験は、怒りや罪責感、混乱をもたらします。自分が選択を誤ったために道が閉ざされたり、過失は無いのに悲劇に襲われたりした時、「もし~だったなら」と深く悲しむでしょう。そして、その辛い記憶を押し殺そうとしても、それは不可能だと気づきます。
5分前ルール
母と子の間に5分前ルールがある家の話を読みました。子どもたちは毎朝、学校に行く5分前に準備を済ませて母親の周りに集まります。すると、母親は子どもたち一人ひとりの名前を言って、神がその一日を祝福してくださるように祈ります。そして「行ってらっしゃい!」と言うと、子どもたちは元気に駆け出すのだそうです。近所の子どもが通りかかると、その子も祈りの輪に加わりました。子どもの一人は、何年も経ってから当時を振り返り、その日のために祈ることの重要性をこの体験から学んだと語っています。